京劇と私

2023-09-28 11:30:00

元文化部副部長劉徳有=文・写真提供

幼心に感じた京劇の魅力 

私は京劇に精通しているわけでは決してないが、子どもの頃から好きだった。 

1930年代初め、日本の植民地支配下にあった大連に生を受けた筆者は幼い頃、市近郊の沙河口に暮らしていて、自宅の南側と西側は大きな廟に面していた。正確な名前は覚えていないが、普段大人たちにならって「南大廟」「西大廟」と呼んでいて、当時「南大廟」に設営された舞台で京劇の公演が行われたことを記憶している。また、「西大廟」では毎年旧暦4月に大変にぎやかな縁日が開かれ、この催しは日本が太平洋戦争を勃発させるまで続いた。 

縁日といえば、京劇は欠かせないものである。両親は古い考えに凝り固まっていて、観劇をうわついたものと見なしていたため、親が京劇を見に連れていってくれることはなかった。むろん、当時は劇場で鑑賞する機会など一度もなく、縁日のときにだけ遠くから舞台を眺めることができた。 

もっとも、私は物心がついた頃から、主にレコードで京劇を楽しんでいた。京劇は演者の歌の技巧を非常に重んじることから、中国人は京劇を鑑賞することを「聴戯」(芝居を聴く)とも言う。当時、商店街にあったわが家の隣近所には絹織物店が軒を並べていて、店同士が客の呼び込みでしのぎを削っていた。それらの店舗の2階には通りに面して拡声器が備え付けられていて、商品の売り込みや自画自賛の宣伝文句が流されることもあれば、店同士が拡声器で互いにののしり合うことすらあった。だが、より多くの場合、拡声器で流されるのは集客用の歌や京劇のレコードだった。 

父が経営していたのは文房具と書籍の専門店で、品ぞろえの中には「戯考」と呼ばれる京劇の歌詞を紹介する本があった。筆者は字を覚えてからというもの、拡声器から聞こえてくる京劇の歌のくだりに耳を傾けつつ、「戯考」とつき合わせていたものだった。 

日本の敗戦前、占領当局が抑圧的な政策を実施し、「戦時統制」を敷いたことで、大連の景気は長い低迷に陥った。絹織物店は続々と店じまいし、軒先の拡声器も沈黙した。もっとも、大連市民は日本の統治と圧迫を甘受せず、日本軍国主義者による支配からの1日も早い解放を心待ちにし、多くの人々は夜中にこっそりと中国のラジオ放送を聞いていた。それは、一方では当局の情報統制をかいくぐり、日本軍が敗退に敗退を重ねている真実の状況を知るためであり、また一方では京劇の実況中継を聞くことで精神的な安らぎを得て、祖国との心のつながりを保ち続けるためだった。 

その頃、ときどき真夜中に目を覚ますと、寝付けずにラジオで中国の放送を聞いている父の姿を目にしたものだった。誰かに見つかれば大変な災いを招くことになるため、音量を絞り、外に漏れ聞こえないよう注意しなければならなかった。あるとき、大連の北にあるという小さな町に住む友人の家を訪れ、店に泊めてもらったことがあった。その日の夜遅く、皆が寝静まる時間に店主がラジオをつけ、北京の劇場で行われた京劇の実況中継を聞き始めた。ラジオから流れてくる劇場の、そして開幕を告げるどらや太鼓の音に、私は感情を抑えきれなくなった。そのときの気持ちの高ぶりは、今でも忘れることができない。

 

偶然が導く京劇との縁 

日本の降伏後、大連は解放され、市街はかつてのにぎわいを取り戻した。 

この頃、筆者はまたもや新たな「聴戯」のすべを見つけた。わが家の裏手に暮らしていた大家一家が据え置き型の大型ラジオを購入したのである。これは、中国人の短波ラジオの所有が禁じられていた日本の植民地支配期には想像すらできないことだった。日本の降伏後、大連に住んでいた日本人は生計を立てるため、生活用品や家具などを大通りに並べて投げ売りした。裕福な大家一家は上部にレコードプレーヤーが備え付けられた大型ラジオに加え、たくさんの京劇のレコードを手に入れた。その時期、筆者はほぼ毎晩大家の家を訪れて、好きなだけ京劇のレコードを聞いていた。梅蘭芳、程硯秋などの四大名旦に加え、譚鑫培、譚小培、馬連良、譚富英、周信芳、金少山など京劇の名人のレコードを繰り返し聞いたのも、まさにこの頃である。私はいつの間にか、いくつかの歌のくだりを口ずさむようになっていた。また、立役者である「生」、女形の「旦」、荒事を披露する「浄」、老け役の「末」、道化役の「丑」といった京劇の役柄のうち、自分が「生」を最も好み、特に馬連良が一番好きな役者であることにも気付いた。 

そのときから、いつか馬連良をこの目で見たいと切望するようになったが、この願いは偶然にも数年後に実現した。1952年の秋、大連から瀋陽に臨時異動となった筆者は、東北人民政府交際処で仕事をすることとなった。それから間もなく、馬連良が瀋陽に来て京劇を演じるのを聞きつけた。それは尊敬してやまない京劇の名人の公演を見られる千載一遇の機会だった。しかも思いがけないことに、観劇より先に私は業務の関係で本人に会うことができた。 

私たちが担当した瀋陽での臨時業務とは、北京で開催されるアジア太平洋地域平和会議に参加する各国代表たちによる東北部の参観と訪問の対応だった。ゲストをもてなすための瀋陽での入念な準備には、「演芸の夕べ」に披露される京劇の手はずも含まれていて、演目は『小放牛』だった。ある日、東北人民政府の指導幹部が事前にひとまず演目を確認することになり、私たち接待班のスタッフが参加した他、瀋陽訪問中の馬連良たちも招かれた。 

当日、馬連良は劇場で私の後ろに座っていた。公演が終わると、観衆は皆立ち上がった。そのとき私は彼の姿をはっきりと目にした。背丈は中背からやや高め、優雅な立ち居振る舞いが印象的で、飾り気のない人だった。劇場の外には世に名高い芸術家を一目見ようと、大勢の人が集まっていた。 

馬連良の瀋陽公演は大きな話題となり、観劇のチケットを手に入れるのは困難だったが、接待班には割り当て分があった。「水に近き楼台は先ず月を得る」という言葉のごとく、役得にあずかったということだろう。その日、劇場の入口は群衆でごった返していて、そのにぎわいたるや劇場内よりも熱気に満ちていた。 

公演の演目は、宋の時代に、売国の徒・潘洪が裁かれる故事を題材とする『清官冊』。馬連良が演じるのは清廉潔白で知られる県知事・寇準で、これは筆者が初めて見た馬連良本人の公演だった。舞台上の馬連良はにして自由自在、所作が非常に洗練されていて、調和のとれた絶妙な演技は生き生きとし、風格をたたえていた。馬連良の歌は観衆に美を届け、その声は透明感と潤いを備えている。響きわたるやいなや人々の心を捉え、しなやかで力強く、聞く者に心地よさを感じさせるのである。 

馬連良が確立した京劇の芸風「馬派」の節回しは、滑らかな旋律と円熟した技巧、簡潔で無駄を省いた華麗さを特徴とし、特にそのせりふ回しは深く心に残る。『清官冊』には、寇準が夜な夜な潘洪を尋問する長い口上の一節がある。馬連良は緩急と強弱をつけながら、早口言葉のように言葉をまくしたてる「噴口」で、息もつかずに長いせりふを言い切る。抑揚に富み、流れるように滑らかで、優美でありながら全てを圧倒する気勢を持つこのせりふに、裁きを受ける潘洪は返す言葉もなくただするという、この上ない見せ場である。筆者は馬連良の演技に満足を覚えながらも、もっと見たいという思いが芽生え、その興奮は長い間収まることがなかった。 


1955年10月、日本の歌舞伎代表団が訪中し、公演を行った。梅蘭芳(左)は北京で日本の著名な歌舞伎役者の2代目市川猿之助(右)と会見し、筆者(奥)が通訳を務めた

 

京劇の本場・北京へ 

1952年冬、大連から北京に異動となった。京劇を見る上で、北京ほど理想的な都市は他にない。配属先の外文出版社は長安劇場からほど近く、観劇には絶好の場所にあり、よく赴いたものだった。北京では、名優の公演や複数の名優の共演が行われることも珍しくない。私が最も多く見たのは馬連良、譚富英、裘盛戎などの舞台で、演目は『借東風』『打漁殺家』『空城の計』『法門寺』などである。 

その頃の筆者は、梅蘭芳、程硯秋、周信芳の公演を見たいという願いも抱いていた。 

1955年春、中国貿易代表団の訪日に際して通訳として随行し、帰国時にはソ連の船に乗ってウラジオストク経由でハルビンに着き、そこで総括を行った。それは折しも周信芳のハルビン公演の時期に当たり、幸いにも周信芳の『蕭何、月下に韓信を追う』と『文天祥』を鑑賞することができた。周信芳の歌い方は独特で、ハスキーで深みのある声がとりわけ妙味を醸し出していた。そのせりふは力強く発音が明瞭で、語気にまで細心の注意が払われており、周信芳の歌とせりふからは、登場人物の感情表現への大変なこだわりが感じられた。 

『蕭何、月下に韓信を追う』は周信芳の十八番である。私はこの演目をレコードで聞いて熟知していたので、ことのほか親近感を抱いた。周信芳の舞台はその名に恥じず、歌の技巧は言わずもがな、演技も実に素晴らしい。表情は生き生きとして真に迫るものがあり、軽やかで熟達した身のこなし、洗練された所作は力強さの中にしなやかさを備えていた。周信芳は役柄の複雑な心情を余すところなく表現し、観衆にあたかも「生ける蕭何」を見せていたと言える。 

また、『文天祥』は新たに作られた歴史劇である。周信芳は若い頃、民主思想と進歩的な演劇運動に共鳴し、「演劇はただ人々に気晴らしをもたらすだけではなく」、むしろ演劇を「闘いの武器とすべきである」という演劇観を育み、無難な内容の伝統劇の他にも反帝国主義・反封建の思想を扱った演目や、愛国主義の精神を広める新劇を多く演じていたことを筆者は知っていた。言うまでもなく、『文天祥』は後者に属する。周信芳が劇の終わりに、文天祥の詩である「人生自古誰無死留取丹心照汗青」(人生古より誰か死無からん、丹心を留取して汗青を照らさん)を吟じた後、終幕となった。 その情景は、今も非常に印象深く残っている。 

初めて梅蘭芳の公演を見たのはそれより後のことで、当時、外文出版社には聞時清という京劇の愛好家がいた。彼は梅蘭芳一家と非常に親しい付き合いがあったため、梅蘭芳を招いて新華社礼堂で『貴妃酔酒』と『宇宙鋒』を演じてもらうこととなった。筆者はそれ以前にも日本の演劇界の人々が訪中した際、梅蘭芳本人に会い、通訳を務めたことが何度もあったが、舞台を見るのはこれが初めてだった。舞台上の梅蘭芳は、若かりし頃の舞台写真のような秀麗さこそなかったが、なおも端正なたたずまいに優雅さを備え、声は甘く潤いがあり、節回しは円熟を感じさせた。その優美な舞姿と精緻な所作は、まさしく国内外の人々に敬愛され、尊敬を集める京劇の大家の芸であった。 

四大名旦のうち、梅蘭芳の他に筆者が直に見たことがあるのは程硯秋で、演目は梁山伯と祝英台という男女二人の恋愛と悲劇の物語を題材とする『英台抗婚』である。会場は確か、広和劇場だったと記憶している。程硯秋の節回しは梅蘭芳と異なり、きめ細かく綿々とし、水のせせらぎのような美しさで名高い。歌の旋律は多彩で起伏に富み、変化の中で時に激情、時に悲しみを表現し、まぎれもなく独特の魅力を持っている。だが、私が見た当時、程硯秋はすでに太っていて、芝居に支障をきたしていたのは残念だった。 


思いがけず自らも舞台へ 

歳を重ねるにつれ、舞台の熱狂の中から、徐々に京劇の極意と言うべきものを見いだせるようになった。名優と呼ばれる人々は、役者人生を通して絶えず自身の芸を磨き続けていることに気付いたのである。例えば馬連良は、歌詞に理にかなった修正を加えることで、京劇のテーマ性と劇中の掛け合いをより際立たせ、登場人物を個性豊かなものとした。明代の長編小説『三国演義』を題材にした演目『空城の計』に、諸葛亮が城楼で歌うくだりがある。その一節は従来、「私はもともと臥龍崗にて気ままに過ごしていた者、陰陽八卦に通じ掌を返すが如く乾坤を定む。……武郷候に封じられ元帥の印をつかさどり、東西に戦い南北を討伐し広く古今の事柄に精通す」というものだったが、馬連良は「私はもともと臥龍崗にて気ままに過ごしていた者、陰陽八卦に通じ古今の事柄に精通す。……武郷候に封じられ元帥の印をつかさどり、東西に戦い南北を討伐し掌を返すが如く乾坤を定む」と変えた。筆者が思うに、これは理にかなった修正である。「陰陽八卦に通じ掌を返すが如く乾坤を定む」とは、諸葛亮のたぐいまれな才能と博学を表している。「東西に戦い南北を討伐」する目的こそ、「乾坤を定む」ことであるべきなのだ。 

馬連良は『三国演義』にまつわるもう一つの有名な演目『借東風』を得意とし、人口にした歌詞や所作に修正を加え、多くの迷信的な色合いを取り払った。例えば、伝統劇の節回しの一種である二黄導板の「神の著作を学び妙法に通じるや掌を反すが如し」という歌詞を、馬連良は「天険の風雲、す」と変えた。また、導板の後に続く回竜の「祭壇を設けて東風を天に祈り周郎を助けん」という部分では、「東風を天に祈り」を「東風を用い」とし、その差は一見大きくないが、迷信を廃したものとなっている。さらに馬連良は、原板で歌う「……かの龐士元が建言した連環の計はすでに準備が整いしも、9日を数えて東風少なく周郎を大いに焦らす。われ甲子の日に東風必ず吹くと確信する……」という部分を、「かの曹孟徳は勝者のりで船を鎖でつなぎとめるも、9日を数えて東風少なく周郎を多いに焦らす。われ甲子の日に東風必ず吹くと予測する……」とした。このように改めることで曹操の横暴と覇道、頑迷さを際立たせるとともに、東風は諸葛亮が計を用いて起こしたのではなく、気象の知識に基づく推測であったことを表しているのである。京劇界の先達たちのたゆまず研さんを積む精神は、参考とし、学ぶ価値があるものだ。 

このようにして京劇に少なからず触れてきたが、まさか自らの生涯で京劇の舞台に立つ機会が巡ってこようとは想像もしていなかった。 

最初にまがりなりにも舞台に上がって京劇を演じたのは、1950年代のことだった。当時、外文出版社の労働組合は大変活気があり、あるとき皆で相談し、新華社礼堂で京劇の公演を行うこととなった。演者は組合員が自ら担い、伴奏は外部のプロフェッショナルを招くことになったのである。公演の演目は『女起解・玉堂春』と決まった。これは、かなり困難な催しだったと言えるだろう。外文出版社にはその頃、『中国文学』の編集部で翻訳に従事していた前出の聞時清がいた。彼は梅蘭芳が創始した「梅派」を学ぶ京劇の愛好家で、女役である青衣と花旦に長じ、声は美しく、所作も見事であった。加えて、『玉堂春』は端役(跑竜套)が何人か必要だったため、頭数をそろえる上で労働組合主席兼『人民中国』編集者の孫戦科と私が選ばれた。 

最も興味深く意外だったのは、英語の専門家で米国人の陳依範(ジャック·チェーン)が出演者として招かれたことだ。孫戦科はかつて自身の回顧録の中で、次のように記している。「あるとき、(段祺瑞時代の)国会礼堂で(『玉堂春』の)公演を行ったことがあり、世に名高い英語の専門家の陳依範が舞台に上がり、旗指し物を持つ役を務めた。後に文化部副部長となった劉徳有氏も劇中で端役を担った」。幸いにして端役は簡単でせりふがなく、前の者にならって歩き、時折掛け声を上げればよかった。自分を含めて数人が小旗を手にして舞台に上がると、会場は一気に活気づいた。 特に、褐色の肌をした陳依範が登場するや、観衆はいっそう沸いた。 

自分にとって2度目となる京劇の出演は、1959年に山西省に下放され、貧農・下層中農から再教育を受けたときのことだった。当時、筆者は中国外文局の下放メンバーの副隊長で、聞時清も同じ隊に所属していた。農村に下放された後、毎日農村の人々と野良仕事にいそしむ以外、娯楽は何もなかった。そこで、聞時清らと相談し、下放された幹部が中心となり、生産大隊の中で京劇『女起解』の公演をやってはどうかという話になった。一つ気掛かりだったのは、『女起解』の登場人物・蘇三のせりふに「洪洞県に善人なし」というものがあり、現地の農民たちの反感を買うのではないかという懸念だった。そこで、人民公社の生産隊長や村民たちと相談したところ、皆が大丈夫だというので安心して配役を決めることになった。言わずもがな、蘇三を演じるのは聞時清である。そこで問題は、「罪人」の護送役・崇公道の役を誰が務めるかということだが、皆が遠慮して押し付け合った結果、私が演じることになった。 

これは実に悩ましいことだった。何しろ私はそれまで端役しか務めたことがなく、当然ながら崇公道、すなわち「丑(道化役)」を演じた経験は皆無だったからだ。崇公道が蘇三を連行する場面には、長いものから早口のものまで少なからずせりふがある。昼間は農作業でとてもではないが覚えるひまがなく、聞時清と相談してせりふを少し短くするしかなかった。公演は休みの日の夜、公共食堂の敷地内で舞台も照明もない中で行われた。衣装や小道具、化粧を大幅に簡素化し、そのうえ伴奏もない「清唱」である。それでも村民たちは早くから会場に集まって興味津々な様子で芝居を鑑賞し、演技を見ながらあれこれ話していて、大いに好評だった。 

1960年代に入り、中華の大地に革命模範劇が登場した。実のところ、伝統的な京劇への思い入れが深かった筆者は当初、この新たな劇をあまりよく理解できなかった。だが、見慣れてくると知らず知らずのうちに、『智取威虎山』や『紅灯記』の中のいくつかの節を歌えるようになった。そして、模範劇に触れる機会が増えるにつれ、十分に見応えがあり素晴らしいものだと感じ始めたのである。今では伝統的な京劇に魅了される一方で、革命模範劇にも愛着を抱くようになっている。 

1980年代中頃に文化部へと異動となり、理屈の上では京劇を鑑賞する機会がより増えるはずだった。だが、部内で携わっていたのは対外文化交流で、芸術分野の担当ではなかったため、想像していたほど京劇を見るチャンスは多くはなかった。1996年に仕事の第一線から退いた後、観劇の機会はより少なくなった。しかし、京劇への思いは昔日と変わらず、なおも深い関心を抱いている。 京劇は私にとって、今も変わることなく人生の大きな喜びである。 


『借東風』で諸葛亮を演じる京劇役者の馬連良

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