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中国で暮らす日本人

2023-01-03 17:06:00 【关闭】 【打印】

植野友和=文

在中邦人に見られる傾向 

外務省の「海外在留邦人数調査統計」によれば、昨年10月1日時点での在中邦人の総数は10万7715人であったという。新型コロナウイルス感染症により人的往来に制限がある中、これだけ多くの日本人が中国で暮らしているのは驚きだが、両国の深い結び付き、地理的近さを考えれば、この数字は当然のものとも言える。 

さて、自分は引きこもりと言ってもいいほど内向的ではあるのだが、それでもこちらで生活をしていると在中邦人の皆さんと交流を持つことがたびたびある。大半はかつて筆者が語学留学をしていた上海在住の人々で、後にはネットを通じて中国各地の方々とも知り合うことができた。その経験を通じて分かったのは、在中邦人には一定の類型や傾向があるということだ。 

最初に言っておくと、中国で暮らす日本人といっても職業や年齢、収入、居住地など人によってさまざまで、地元の人々と同じ生活をして完全に現地化している方もいれば、大企業の駐在員として数年働き、ほとんど中国語を覚えずに帰っていく方もいる。そうかと思えば最初は会社の辞令で訪中したが、こちらで生涯の伴侶を見つけたり独立してビジネスを始めるなどして、中華の大地に骨を埋める覚悟でこの国になじんでいる強者もいる。多様な人々がいる以上、「在中邦人とはこうである」とひとくくりにして何かを言い切ることには、そもそも困難が伴う。以下はあくまで筆者の私見、もしくは仮説であることをご了承の上、お読みいただければ幸いである。 

まず第一に挙げられるのは、収入の多さは時として中国理解の邪魔になるということだ。 

全ての方がそうであるとは言わないが、こちらで暮らす日本人にはやたらとステータスを気にする人がいる。上場企業の駐在員で年収何千万円という人と、現地企業勤務で収入もそこそこという人では生きる環境が違うのは当たり前とはいえ、それが互いの交流の妨げとなったり、時にはマウントの取り合いに発展したりする。 

幸い、自分はおっさんであり、他者の評価がもはや気にならない年頃である。「四十不惑」と言えば何か立派に聞こえるものの、人様の視線を何とも思わないので、髪型や服装は適当になる。それはそれで問題ではあるのだが、いずれにせよ過剰な自意識からは解放されている。そんな自分にとって興味が湧くのは駐在員の方々ではなく、現地企業に勤めて中国に溶け込み、下手すれば完全に同化してしまった日本人である。 

給料や会社からの手当てが多い方がいいのは当たり前。だが、お金がたんまりあることで、中国暮らしで遭遇するさまざまなトラブルを回避できてしまう。これも言うまでもなく、揉め事なんて避けられる方がいいに決まっているのだが、筆者の経験則から言うと困難に直面したときこそ、その人にとって大きな学びの機会となる。 

通訳兼秘書が常にフォローしてくれればそれは便利には違いないけれど、言葉を覚えたり現地の習慣を吸収しようとするモチベーションは生まれない。住んでいるマンションの天井からいきなり大量の水が漏れてきたり、オンラインで予約したホテルに着いたら受付の人に「そんな名前はない」と言われて口論になったり、はたまた国際結婚するに当たって普通話(共通語)が話せない相手の家族にあいさつに行ったり……そういう試練を自力で乗り切ってきた人の話は単純に面白く、自分にとっても学びになる。「入郷随俗」(郷に入れば郷に従え)においては恵まれていることが必ずしもプラスにならないというのは、かなり確信を持って言える筆者の考えである。 


北京冬季オリンピックの大学生ボランティア取材に当たり、北京語言大学でレポートをする筆者 

  

中国を肌で感じることの大切さ 

第二に、たとえどんな職業や立場の方であろうと、この10万余りの在中邦人の方々の中国理解は傾聴に値するということだ。 

今この瞬間に中国で暮らし、働いている人の多くは、コロナでも帰国しなかった方々である。上海在住20年以上、中国のゴルフ業界に携わる筆者の知人はコロナ発生当時、「この国に育ててもらった僕が、従業員たちを残して自分だけ帰れると思いますか」と言っていたが、そういう中国愛のメンタリティーを持つ在中邦人は決して少なくないだろう。ただ、中国に暮らしていて、この国のことを好きになる人がいる一方、どうしても自分に合わないと言う人だって当然いる。人間いろいろ、個性もさまざまであるから特に不思議なことではないが、筆者がここで強調したいのは、彼らの思いは中国で暮らし、この国を肌で感じた上でのものということだ。 

日本のネットニュースやSNSを見ていると、「この人はおそらく中国に行ったこともなければ、ちゃんと調べたこともないのだろうな」と思うコメントを大量に見掛ける。それは端的に言って思い込みであり、下手すれば妄想であったりする。「知之為知之、不知為不知。是知也」(之を知るを之を知ると為し、知らざるを知らざると為す、是知るなり)と論語の言葉にもあるように、知らないことを分かった気になるのは愚の骨頂である。それに比べて在中邦人の中国観とは、経験をベースとしている以上、しっかりと地に足が着いている。むろん中には中国で暮らしていながら何を見ているんだと思うような意見を言う方にも遭遇するが、中国について知り、語ろうとするならば、まず中国を肌で感じるべしと筆者は多くの同胞に強く伝えたい。 

最後にこれは全くの私見だが、中国は地方によってさまざまな文化があり、人々の気質も違えば生活環境も異なるのだが、在中邦人も住んでいる場所ごとに、その土地の影響を受けるように感じられる。中国随一の大都会である上海に暮らす日本人はやはりキラキラとした印象を覚えるし、温暖で産物豊かな華南の在中邦人は心の豊かな方が多く、首都・北京の日本人は堅実でしっかりした人を多々見掛けるように思うのだ。しかも、そのような現象は現地の人々と盛んに交流を持っている方ほど顕著であるように感じられる。 

では筆者はどうかと言えば、まだまだ北京市民と名乗るには程遠く、物事を日本基準で考えがちであると痛感している。要は、在中邦人としては駆け出しもいいところ。現地の人と見分けがつかなくなるくらいこの国になじむことができたとき、自分の中国理解はきっと今より深いものとなっているだろう。それがいつになるかは、自分にも分からないが――。 

 

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