北京行きのきっかけ

2023-02-07 15:29:46

劉徳有=文・写真提供

「人生には思いがけないことがよくある」と言われるが、中国東北地方の港町大連に生まれた筆者が、まさか首都北京で仕事をするようになるとは、思いもよらなかった。 

1952年の冬、二十歳になって間もなく、はからずも転勤で大連から北京へ。それも本誌――『人民中国』の創刊と関係があり、不思議と言えば不思議と言えるかもしれない。 

あれからはや70年。今年の6月5日は、『人民中国』日本語版の創刊記念日。創刊に携わった者の一人として、当時を回想し、個人の体験を交えつつ、向こう1年間、本誌の草創期にまつわる裏話や感想などを、エッセイの形でまとめてみたいと思う。題して「エッセイ草創期の『人民中国』」。 

52年といえば、筆者にとってあらゆる意味で人生の転機を迎えた年であった。正直言って、45年の8月、日本が敗戦したとき、14歳だった筆者には、まだこれといった判断力もなく、ただ感情的に、「これまで学校で習った日本語はもう使えない、いや、使ってやるものか」と考えていた。戦後、新しい基礎の上に日本人民が自国を再建するようになるとは想像すらしなかった。 

ところが51年の春、はからずも筆者は、解放後に人民政府によって大連に残された日本人技術者の子弟のための学校――大連市日僑学校で中国語を教える部署に配属替えとなった。それが転機で、日本語は解放後の中国にも役立つのだということが分かった。 

しかし、その時点では、筆者は北京とは全然関係がなく、北京行きなぞ考えてみたこともなかった。52年の10月、北京で新中国初めての国際会議――「アジア太平洋地域平和会議」が開かれたが、もしこの会議がなければ、おそらく、生まれ故郷の大連で一生を過ごしたかもしれない。 

52年、夏休みも終わりに近づいたある日、大連市人民政府教育局から出頭するよう言われた。何事かと思いビクビクしながら行ってみると、北京で国際会議が開かれ、日本代表が見えるので、臨時通訳として北京へ出張するよう命じられた。筆者のほかに、もう一人、王という年配の教師がいた。 

教育局の紹介状を携え、北京へ行く喜びを胸に北上の列車に乗り込んだ。列車は闇に包まれる遼南平野をひた走り、瀋陽へと向かった。 

翌朝、瀋陽に着き、駅近くの小さなレストランで朝食を済ませると、すぐ東北人民政府人事部に向かい、北京行きの手続きをとろうとした。応対に出た人に紹介状を渡し、手続きの終わるのを待っていた。しかし、相手の人は何回も紹介状を読み返すと、少し残念そうに言った。 

「お二人には北京へ行っていただきません。東北を参観したいという外国の代表がおられるので、瀋陽ではそのための接待班が設けられ、お二人にはそのために来ていただきました」 

「ええっ、北京に行かない? 瀋陽に残るんですか?」。頭から水を掛けられたような感じだった。 

日本語、英語の通訳はじめ関係者が瀋陽に集まったのは、8月下旬だった。「アジア太平洋地域平和会議」の開催は10月上旬であったので、最初の頃、手持ち無沙汰の日が続いたが、しばらくして、仕事が与えられた。見学先の案内書の翻訳だった。見学先は、工場もあれば農村もあり、教育施設から文化遺跡まであらゆる分野に及び、難しい言葉がいっぱい出てきて、往生した。 

最大の困難は、参考資料や辞書が一冊もないことだった。例えば、「工作母機(工作機械)」「床(中ぐり盤)」「銑床(シリンダーマシン)」など機械の翻訳には特に苦労した。自分の知っている言葉を全部掘り出して翻訳を続けた。苦労の日々だったが、翻訳の質も想像できよう。仕上がった訳文を「民主新聞」社に持って行き、そこの達人に直してもらうよう指示がおり、救われたようでホッとした。 

「民主新聞」とは、日本の敗戦後、中国東北地方に残留していた日本人住民が発行した新聞で、社屋は宿泊先の遼寧賓館からあまり離れていなかった。訳文を持ってゆくのは当然、若い私の仕事だった。「民主新聞」社では、いつも社長の井上林さんが迎えてくれた。社長室はとても小さく、行くと、いつも椅子に座らせ、話をしてくれた。社長は、中国の普通の幹部と同じものを着ていて質素で、一見中国人に見えた。好奇心から、「民主新聞」社のどんな達人によって訂正と潤色がなされたかを知りたかったが、会う機会はなかった。直されてようやく様になった文章を持ち帰り、写しながらいつも、どうしてこのように修正されたかを考え、理解しようとした。大変良い勉強になったことは言うまでもない。 


大連市日僑学校の教職員。3列目右端が筆者(1952年) 

瀋陽にいても、われわれ関係者は北京のことをいつも考えていた。 

10月初旬に開かれる「アジア太平洋地域平和会議」の準備は着々と進んでいた。日常の仕事に追われる中、会議の進捗状況や雰囲気などは実感できなかったが、自分のしている仕事がこの重要会議の一部であったので、会議に関する動きには高い関心を持っていた。 

開会は、10月2日。大会の生放送を聞くために、接待班全員が賓館1階にある大きな部屋に集まった。まるで北京にいるかのように興奮した。開幕式で演説する郭沫若氏の抑揚あるあの独特な声がラジオから流れてきた。 

「平和は座して待つものではなく、勝ち取るものです」 

この言葉は、心の底まで響いた。 

11日間続いた会議は、大きな成功を収め、日本問題や朝鮮問題に関する決議などを採択して幕を閉じた。 

会議が閉幕に近づくにつれ、各国代表の瀋陽参観を具体的に考えるようになった。わくわくする中、日本代表は東北へ来ないことが通告された。あまりにも突然なことに、われわれ日本語通訳は失望の深淵に突き落とされたようだった。 

東北見学に来た外国の代表は全て英語を話したので、日本語通訳は完全に「失業状態」になり、仕方なく、参観隊列の後ろに付いて通訳のやり方を見習うことにした。実際のところ、通訳の担当者は全て外国代表に随行して直接北京から来た人たちで、レベルが高く、通訳する際に必ず小さなノートを持ち、メモを取るその真剣な姿がとても印象的で、感動的だった。自分にはこのように現場で通訳をしたことがなく、お手本として勉強した。もし、あのとき、すぐに通訳しろと言われたら、果たして自分にできただろうかと思ってみたりした。 

ある日突然、賓館に見知らぬ訪問客が2人訪ねてきた。 

  

(本シリーズを書くに当たり、藤原書店出版の拙著『時は流れて――日中関係秘史五十年』と日本僑報社出版の拙著『わが人生の日本語』の一部を参考にしました。) 

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