大連から北京へ

2023-03-28 10:10:00

劉徳有=文

電話を受けて東北旅社へ行ってみると、康大川と陳譜の両氏はすでに大連から戻ってきていて、康氏は、「人事異動の交渉が終わり、大連市党委員会と日僑労働組合(日僑学校の上部機構)の方も異議がありませんでした。君が大連に帰ったら、すぐにでも辞令がもらえるでしょう。大連市党委員会呉濱さんが君に連絡するはずです。君と一緒に北京へ転勤するのは、大連日報社記者の安淑渠さん、日僑学校甘井子分校の先生李玉銀さん、そして大連市党委員会の于鴻運さんです」と教えてくれた。 

李玉銀さんは、私が康氏に推薦した人なので面識があるが、他の人の名前は初耳だった。 

10月末の瀋陽は寒い。町じゅうの木が全て寒風により落葉し、枝には一枚の葉っぱも残っていなかった。故郷のことが急に恋しくなった。 

待ちに待った解散の日がようやく来て、交際処の責任者が「今回の臨時の仕事は終了しました」と宣言し、皆がそれぞれの「前途」へ向かって出発した。私も2カ月ぶりに故郷の大連に帰り、普段通りに日僑学校に出勤した。校長先生と同僚は私の転勤を知っていたようだったが、それに触れる人はいなかった。 

11月中旬になって、ある日、大連市党委員会から「呉濱さんに連絡してください」との連絡があった。市党委員会に行ってみると、安淑渠さんが待っていた。しばらくして于鴻運さんも見え、なぜか李玉銀さんは来ていなかった。早速電話を入れると、用があって来れないとのことだった。呉さんから「辞令がもう来ているので、すぐ上京の準備をするように」と言われ、3人で出発日について話し合った。12月9日が大連を離れ、北京へ向かう日と決まった。 

1210日午前、われわれを乗せた列車は徐々に速度を落とし、北京前門駅(今は閉鎖され、他に転用)のホームに停車した。 

ようやく憧れの地、北京に着いた。 


1950年代初期の天安門(写真提供・劉徳有)

大連から来た4人の名前が書かれた白い紙を掲げた人がホームで待っていた。外文出版社『人民中国』日本語版編集部の人で、わざわざ出迎えに来てくれ、ありがたかった。その人は気を利かして、上京したばかりの4人をジープに乗せ、まっすぐ天安門に向かった。 

初めて見る天安門は、荘厳で迫力があった。真冬の寒さは厳しかったが、紺碧の空がどこまでも広がり、燦然と輝く太陽の下、黄色い屋根、赤い塀のこのシンボリックな古代建築物はことのほか明るく、そして美しかった。思わず胸が熱くなり、北京に来たという実感が湧いた。 

ジープは西単国会街新華社総社の中庭に停まった。外文出版社は、構内の南西にある3階建ての灰色のビルだった。 

2階の東側にある大きな部屋へ案内されたが、そこは『人民中国』日本語部編集室であった。スタッフは、リライトを担当する日本人専門家も含め、全員この部屋で仕事をしていた。瀋陽で知り合った康大川氏は、会議が終わって部屋へ戻るとすぐにわれわれのところに来て歓迎の意を表した。 

お昼近くなると、食堂に案内された。食堂は新華社と共同で使用しており、かなり込み合っていた。料理は種類も多く、生まれて初めて「田鶏(田圃の鶏)」の美名で呼ばれる蛙の炒め物と雀のフライを食べた。珍しくて味も良かったが、今は環境保護政策で、食べられなくなった。 

その後、瀋陽や各地から集まってきた部員がほぼそろったとき、外文出版社社長の師哲氏が編集部の大部屋にあいさつにやって来た。毛沢東のロシア語通訳と噂されていたので、なんとなく神秘感があった。 

皆が長いテーブルを囲んで座り、社長のスピーチを聞いた。氏の標準語には少々陝西省のなまりがあった。通訳生活が長いためか、言葉の前後の配置に非常に注意しているように聞こえ、ロシア語から中国語に直訳している感じだった。氏は日本語版『人民中国』出版の重要性について語り、日本の職員も中国の職員も皆主人公であり、心を一つにして仕事をうまく運ぶようにと励ましの言葉を述べた。困難にぶつかったら、自らの力によって解決して他人のせいにしてはいけないと語った氏は、「夜中に一人歩いて、溝や石につまずいて転んだら、どうするか?自力で溝を埋め、石をよそに運ぶ以外に、ほかに方法はないでしょう」と面白い比喩を使った。 

日本語部人員は、翻訳係、初期チェック係、リライト係、訳稿審査係、校正係、レイアウト係、進行係、和文タイピスト係、資料係と通信連絡係などに分けられた。私が配属された翻訳係は、3人の中国人と2人の日本人で構成され、日本人は瀋陽の『民主新聞』社から移籍した林弘さんと戎家実さんだった。 

『人民中国』日本語版が順調に出版できるように、パイロット版を2回出版することになった。パイロット版第1号は、「1953年第1号」の形で出版された。薄っぺらで、表紙も簡素だった。表紙の「人民中国」の四文字は毛主席が日本語版創刊のために揮毫してくださったものだと思っていたが、実は別々に書いたものをつなぎ合わせて作成したと後で聞かされた。 

採用された原稿は、英語版の『人民中国』から選ばれたものであった。英語版の文章は、原則として、中国語がオリジナルであるが、外国の専門家がリライトしてから再び中国語に翻訳された文章なので、欧化されたセンテンスが多く、バタ臭く、意味の取りにくい箇所があちこちにあった。 

パイロット版第1号で、康大川さんから与えられた短文がこの手の文章で、当時の朝鮮における米軍による捕虜虐殺を非難する内容だったが、英語の分からない私にとって、翻訳は「難行苦行」と言ってよかった。あらん限りの力を尽くしてやっと翻訳を終え、リライトのため日本人専門家菅沼不二男氏に渡したが、氏は私を呼び寄せ、「こんなバタ臭い中国語はわしにも分からぬ。いっそ英語を見て直した方が早い」と言って、英語版を参考にして朱を入れてくださった。そばで原稿が真っ赤になっていくのを見ていて、内心ひどく気をもんだ。 

二度のパイロット版はどう見ても、政府公報にしか見えず、内容の充実と改善が期待された。 

テスト後、正式創刊日が1953年6月に決められた。 

 

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