『人民中国』日本語版創刊

2023-04-17 15:49:00

劉徳有=文

パイロット版を2度出した後、創刊号の仕事にとりかかった。

日本での販売に間に合わせるため、創刊号は2カ月前から編集と翻訳の作業を始めなければならなかった。そして、1カ月前まで、印刷と製本を終わらせて、船便で日本へ運ばなければ、間に合わない。日本人の読書習慣を考えれば、雑誌は前月のうちに販売されるのが望ましいにもかかわらず、その当時、どうしてもそれができず、もし、前月に届くようにするとなると、もっと早くからの編集が要求されるので、雑誌の内容が勢い古くなって、新味がなくなる。航空便に切り替えると、運賃があまりにも高すぎ、コスト高となってしまう。 

だが今はどうだろう、製版印刷技術の目覚ましい発展で、中日両国同時進行で作業が行われ、雑誌は間違いなく前月末か月初めに読者の手元に届くようになり、昔を知る私なぞには、まったく夢のような話である。 

『人民中国』日本語版の創刊日は1953年6月5日だが、「創刊号」は早くも5月中旬に出版された。表紙には、メーデーの慶祝パレードの際に撮った天安門楼上の写真が使われ、毛沢東主席がほほ笑みながら少年先鋒隊員から花束を受け取る姿があった。毛沢東の両側に、朱徳、劉少奇、周恩来、彭真らが立っていた。「人民中国」の4文字は、パイロット版よりかなり改良され、赤地に白く印刷され、明るくて人目を引いた。 

創刊号の巻頭を飾ったのは、郭沫若氏の「発刊のことば」である。送られてきた原稿は、生まれて初めて見る郭氏の毛筆による真筆であった。しかし、掲載されたのは原稿ではなく、日本語訳のみで、署名の「郭沫若」の3文字だけが郭氏の自筆だった。 

少し長くなるが、抜粋してみたい。 

「『人民中国』の日本語版は、日本語の文章の読める読者、主として日本の人民に、今日の中国の国家建設事業——政治経済文化教育社会活動など各分野にわたる事業の実際の姿をつたえ、これによって、読者が正確に迅速に不断に、また事業の発展に即して、比較的に全面的な理解を得られるようにすることを趣旨としている。これは中日両国人民の友誼を促進するためにも、また極東の平和を擁護するためにも重要なことである」 

「各国人民間の友好合作こそ、国際間の恒久平和を擁護するための確固たる基礎であるということを、われわれはよく知っている。だが、各国人民間の友好合作を実現するためには、まず相互の理解を促進することに全力をそそがなければならない。相互に理解しあってこそ、はじめて互いに尊重し合い、学びあい、助けあうことができ、真の友好合作の段階に到達することができるのである」 

「中日両国人民は、歴史上の久しい交わりと地理上の隣接から、密接な関係におかれている。日本では、漢字をやはり日本文字を構成する一つの要素として使っている。また日本人民の生活様式と生活感情には伝統的に中国人民のそれと似かよったものがある。こうした事情のもとでは両国人民の相互理解は比較的容易に行われるはずである」 

「人と人との間柄がいたって親密な場合、これを『知己』という言葉であらわしている。この言葉は、日本でもつかわれている。国と国との関係においても、われわれは『知己』といえるほどの関係を結びたいものである。われわれは、日本の人民が日本の支配層とはおのずからことなっているということをよく知っている。日本の人民は、中国の実際の姿を知りたがっており、また貿易の上でも文化の上でも、われわれと深い交わりをむすぶことをのぞんでいる。こうした要素は、実際のところ本誌の刊行にとっても力強い激励となっているのである」 

「われわれは侵略戦争の政策に反対している。したがってわれわれは、ニュースを報道する場合、報道の真実性を保護して戦争挑発者の封鎖と隠蔽と歪曲をうち破らなければならない」 

郭沫若氏はその後もずっと『人民中国』の成長を見守ってくださり、いかにして読者に愛される読みやすい雑誌にするかについて度々提案をされたことがある。 


『人民中国』創刊号に掲載された郭沫若氏の「発刊のことば」(写真・劉徳有氏提供)

あるとき、編集部の責任者と一緒に、郭先生のお宅を訪れたことがあるが、読者を増やすためには、日本人の好みに合った文化的なものをもっと多く紹介することが必要ではないかと力説された。例えば硯、中国には歴代の有名人が使った硯をコレクションしている方がおり、その方を取材して記事にまとめれば、日本の読者はきっと喜ぶに違いないと話され、また、科学や考古学など学術界の動きを伝える記事も喜ばれようが、硬い学術論文は困るが、かみ砕いて分かりやすく解説したものなら良いのではないかと、話された。そして、雑誌には毎号、柱になる記事が2、3本必要だが、ほかにもいろいろな読み物があって初めて成り立つのであって、「美しく咲いた牡丹の花にも緑の葉」という中国のことわざのようなものですと言って、次のような詩的な言葉で結ばれた。「それはまるで夜空のように、ただポツンと丸いお月さまだけでは寂しく、やはり月の周りに雲とか星をちりばめて初めて、お月さまが際立つのではないでしょうか?」 

さて、話は戻るが、印刷工場から届いたばかりの「創刊号」にはインクの匂いが漂っていた。創刊号を手にしながら、感動を抑えきれなかった。この雑誌が間もなくお隣の日本へ運ばれるのかと思うと、心が穏やかでいられないような気がした。 

しかし、「好事魔多し」で、みんなの興が高まったところに、日本人スタッフの一人が誤植に気付いた。メーデー祝典に参加した日本代表の名前が間違えられ、「児島」が「児玉」になっていたのだ。このミスは、本文ではなく、グラフ写真のキャプションにあった。ほんの一字の誤植だが、創刊号であり、しかも日本代表の名前の間違いなので、ミスのまま日本に発送するわけにはいかない。 

訂正の方法には二つある。一つは、そのページを取り外して刷り直し、差し替えること。もう一つは、次号に訂正を出すことであるが、再印刷には時間がない。編集者にとって創刊早々、訂正を載せるのは面目が立たない。結局、総動員で、ひげそりの刀で間違えた字をこすり落とし、爪でアトをきれいにして、その上に活字を下ろした。一冊一冊直し、2000冊が終わったのは、東の空がすでに白々としてきた頃だった。 

当時、日本人にとって中国は、近くて遠い国で、日本語版『人民中国』は、中国の事情を知る重要なルートの一つになった。雑誌は歓迎され、翌月の7月号は発行部数が9000部を超え、その後一番多いときは10万部に上ったこともある。 

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