「仕事が一番の楽しみ」——池田亮一(上)

2023-07-21 18:32:00

劉徳有=文

草創期には、日本人リライト専門家は、前出の菅沼不二男氏のほかに同じく瀋陽の『民主新聞』社から、池田亮一氏が残務整理のため少し遅れて寿美夫人と共に見えた。 

寿美夫人は作家の檀一雄の異母妹で、菅沼氏の夫人・久美さんの実の姉だった。 

『人民中国』創刊以来、筆者は好運にも、池田氏と10年間仕事を共にできた。「仕事を共にした」というよりも、日本語の勉強、特に中文日訳の面で10年間指導と援助を受けたと言った方がいい。 

『人民中国』編集部で翻訳作業担当だった筆者は、主にルポルタージュや小説を翻訳していたが、後期には、同僚が訳したものを中文原稿と照合する「突き合わせ」の仕事をするようになった。こうした中で、リライト専門家の池田氏と訳文を「検討」したり、直接教えを請う機会が増えたが、池田氏が言葉に対する素養が高く、小説やルポルタージュやレポートなどの文学性の高い文体にたけていることに気付かされた。氏はしばしば一つの単語をするのに長い時間をかけていた。翻訳原稿修正のときの一心不乱の姿を今でもはっきりと覚えている。机の上に訳文と原稿を広げて、無意識に右手でしきりに髪の毛をかき上げ、口の中で何やらつぶやきながら、これだと思う言葉が見つかると、さっと赤ペンを執って添削していく。池田氏の添削のスタイルは、できるだけ元の訳を尊重することで、決して芝居の隈取のように真っ赤に直すようなことはしなかった。手直しがたとえ数カ所だけであっても、訳文は明らかにワンランクアップしており、仕事のテンポはいささか遅くても、直した訳文はハイレベルなものになっていた。10年間直してもらう中から、筆者は大きな教えを得ることができた。池田氏はあるとき筆者に、日本語の作文の素養を高めるには、『朝日新聞』のコラム「天声人語」と川端康成の文章をたくさん読むことだと教えてくれた。氏は、「天声人語」と川端康成の文章力を高く評価していた。 

『人民中国』は月刊なので、時には情勢の発展に応じて臨時に一、二篇の文章を追加したり、差し替えたりすることもあった。そういうときには残業して一気に仕上げなければならず、日曜日を返上することさえあった。だが、池田氏はいつも楽しそうに残業を引き受けて、恨み言など言ったことがない。 

筆者の経験したことだが、ある日、緊急の仕事が入って日曜出勤をしなければならなくなった。責任者の康大川氏が原稿を持って池田氏に理由を説明し、冗談半分に「明日の日曜日は『返上ですね』」と言った。池田氏は笑いながら「そんなことだろうと思ってましたよ。それでさっき寿美子に『明日の日曜は自分で使うから、お付き合いしないよ』と言っておいたところです。実際、明日の日曜はもうすっかり取り返して、自分に『返上』してるよ」と答えた。そして指で原稿を指しながら「正直言って、仕事が私の一番の楽しみでしてね」と言った。このときから、池田氏に残業をしてもらわなければならないときはいつも、康大川氏は気軽な口調で「また『お楽しみが』増えますが……」と頼みに行った。 

池田氏は責任感の強い人で、原稿を直すとき、一字一句推敲を重ね、少しもいい加減なところがなかった。どんなセンテンスであれ、どんな語句であれ、直し方に納得がいかなければ、ずっと気に掛けて手放そうとはしなかった。あるときなど、原稿が印刷に回った段階で、もっといい訳がふと頭に浮かんだので、すぐ印刷所に電話を入れて、校正係のスタッフに自分の言う通り修正するよう求めたこともあった。 

『人民中国』の創刊に携わった者の一人として、自分で言うのもおかしいが、『人民中国』の日本語のレベルの高さには定評があった。編集部は日本の読者から受け取った手紙や訪中した日本の友人たちの口から、『人民中国』の訳文はしっかりしていて優れているという褒め言葉をよく耳にした。故人となった魯迅研究者で翻訳家の竹内好氏の著作『中国を知るために』の第1集にこんなくだりがある。「……ここで私はこの雑誌(『人民中国』)の日本語について話してみたい。この日本語は実にすばらしい。すばらしいというよりもむしろ、的確な日本語だと言ったほうがよい」。この称賛の言葉には、少しも誇張がないように思う。そこには、池田氏や菅沼氏らリライト専門家の注いだ心血が含まれていることは疑いない。 

その頃、仕事の上で、できるだけみんなの意見を聞くようにしていたので、翻訳の関係でも毎週1回全体会議が開かれ、訳文が検討された。中国人スタッフの日本語レベルはまちまちだったので、会議では多種多様な意見が出されていた。添削の役目を負っている池田氏は辛抱強く仔細にそれらの意見に耳を傾け、意見が正しいか否かにかかわらず、面倒くさそうなそぶりを見せたことは一度もなかった。あるとき、大学を出たばかりの女性スタッフがある単語の訳について意見を出した。提案された日本語がぎこちなかったので、みんなはらはらしたが、池田氏ははねつけるのでなく、何度も問い直した後、それにヒントを得てインスピレーションが働いたかのように、この女性の意見を土台にして、より適切な訳を見つけ出した。意見を出した若い女性が大いに励まされただけでなく、その他のスタッフもそれ以降、積極的に自分の意見や考え方を言うようになった。 

また、池田氏は編集の面でも素晴らしい提案を出していた。1963年の1月号から掲載が始まった「古美術」のコーナーは、氏の提案により設けられたものだ。カラーページで中国古代の磁器を紹介するこのコーナーは日本の読者の受けが大変良かった。自分で写真を選ぶだけでなく、時には自ら筆を執って翻訳した。一度、カラーがうまく刷り上がらなかったときなど、3日間よく眠れなかったほどだった。 

当時、北京に長く常駐し周総理から「民間大使」と呼ばれていた友好人士・西園寺公一氏の話だが、池田氏自身「私は『人民中国』を自分の一生の仕事だと思っているので、全身全霊を打ち込んでいる」と語っていたそうだ。 


池田亮一氏夫妻と共に。右端は島田正雄氏。後ろは筆者(写真・劉徳有氏提供)

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