第7回 シンガポールとマレーシアを跨いだ茶荘達

2021-03-10 09:23:05

文・写真=須賀努

  先日ある若い人に「昔はシンガポールとマレーシアは一つの国だったんだよ」と言ったら、驚かれてしまい、こちらが驚いた。東南アジアの歴史というのは、一般日本人にはそれほどに知られていないことを痛感する。

 

  前回紹介してきた林金泰も1924年にクアラルンプールに店を構え、翌年シンガポールに本店を作っているが、それは同じ国の中のことだったのだ。今回マレーシアで老舗茶荘探しをしている中、元々はシンガポールに店があり、その後マレーシアにも店を出し、今はマレーシアだけが残っている茶荘がいくつかあった。今回はそんな茶荘を紹介してみよう。

 

マラッカの高銘發茶荘

マレーシアの首都クアラルンプールから高速バスで約2時間。600年以上前から貿易拠点として栄えた古都、マラッカに着く。この街はそれ自体が歴史的建造物で溢れ、ポルトガル風、オランダ風、イギリス風、そして中華風と歩いているだけでも十分に歴史を感じられる。中国でいえば明代に鄭和もここに立ち寄っており、その200年前にシンガポール、ペナンと並んで、英領海峡植民地になっている。

 

マラッカ 高銘發

そのマラッカに老舗茶荘があると聞き、訪ねてみた。高銘發茶荘は中国人街の中にひっそりと店を構えていた。「もうずいぶん長い間、マラッカで中国茶を商っているのはうちだけだよ」と3代目オーナー高培材さんは静かに語る。店の雰囲気も天井が高く、如何にも老舗という感じがする。

 

創業者 高銘壬

高銘發は元々福建安渓虎丘出身の祖父高銘壬が、1905年にシンガポールで最も早く開業した茶荘の1つ。1928年に設立された新嘉坡茶商公会第1回会員名簿を眺めると、高銘發茶行の名前があり、後に理事長も務めている。1930年にこの高銘壬がここマラッカにも店を開き、現在地より5軒先で開業したという。第2次世界大戦後、祖父はシンガポールの店を長男に任せて、三男だった父と一緒にマラッカに完全移住し、晩年を過ごしたので、高培材さんも、子供の頃、お爺さんの周囲には常に友人たちが集い、皆でお茶を飲んでいた風景が蘇るという。

 

高銘發 昔の茶缶

シンガポール店は1960年代には茶業を止めてしまった。その個別事情はわからないが、1972年に源崇美の顔輝宗が書いた文章を読むと「シンガポールの若者はコーラやサイダーを好んで飲み、既に中国茶を飲まなくなった」と書かれている。だがもっと大きな要因は「マレーシアとインドネシアという2大市場への中継茶貿易の機会が失われた」ことだろう。シンガポールの若者だけがコーラを飲むようになったわけでは決してあるまい。

 

1972 顔輝宗の報告書

1960年代のインドネシアにおけるスカルノからスハルトに政権が変わったことによる、華人排斥、中国語禁止などとも無関係ではなく、同時に1965年シンガポールがマレーシアから独立(マレーシアに捨てられた?)したことによる西洋化に起因するともいえる。1960年代を境に、東南アジア各国での中国茶消費には劇的な変化があった。

 

一方マラッカでは1953年に高銘發の登記が正式に行われ、マラッカ唯一の中国茶荘は常に祖父の友人たちが集い、賑わっていた。その後父高水成が受け継ぎ、福建茶を中心に販売を続けた。基本的に自ら茶を輸入することはなく小売りがメインだが、1960年にマレーシアとシンガポールの茶商が結成した岩渓茶行には名を連ねており、高銘壬氏の茶業界での影響力が感じられる。現在は3代目となっているが、残念ながら後継者はなく、今後この店がいつまで続くのかは分からないと寂しげに話す。

 

クランの楊瑞香茶荘

マレーシア最大の港、クラン港。クアラルンプールから電車で1時間半ほどの場所にあり、往時は茶葉を含めて多くの輸入品がここで陸揚げされた。昔は多く中国系苦力が働いており、そこから生まれたのが肉骨茶だと言われている。ただこの肉骨茶(バクテー)、茶をテーと読むことから福建語なのだが、実は茶は入っていない。

 

クラン 肉骨茶

当然ここにも老舗茶荘があるだろうと聞いてみると、一軒の住所をもらい訪ねていく。だがなんとそこは茶商の自宅であり、店は既に無くなっていた。楊瑞香、ここも高銘發同様、安渓人の曽祖父、楊恵がシンガポールで開業、1930年代にクランに支店を出した。新嘉坡茶商公会でも初期は楊恵丕が主要な役割を担っていたが、1947年を最後に名簿から名前が消えており、主戦場を福建人が多く住む、港が近くて便利なクランに移したと考えられる。

 

クラン 楊瑞香の包装

だがその後、中国から入ってくる茶は限られてしまい、徐々にビジネスを中国茶から、マレー系、インド系など誰でも飲める、ミルクティー(テダレ)の原料である紅茶粉の供給に切り替えていったという。そして1990年代には、クランの街中にあった店舗を閉め、現在は茶工場だけが残っている。因みにその店舗があった場所へ今行ってみると、なぜか完全なインド人街になっており、貿易港クランの街のその変化には驚く。同時に華人系勢力の減退も感じられ、マレーシアという国の大きな変化にも思いが至る。

 

楊瑞香の店舗跡

 

 

 

 

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