第13回 タイ北部 雲南回族が作る茶(1)

2020-07-02 17:08:57

文・写真=須賀努

3年ほど前、静岡のお茶専門家と一緒にタイ北部、チェンライ郊外の茶園を訪問したことがある。その時対応してくれた女性経営者は、ムスリムの服装で頭を覆っていたが流ちょうな中国語を話したので、強く印象に残っていた。今回どうしても彼女の一族の歴史が知りたくて、もう一度チェンライを訪ねたところ、何とも壮大な歴史が語られ、ビックリした。

 

チェンライ 清真寺

チャンライはタイ最北端の街で、昔から交通の要所として栄えてきた。仏教寺院の他、大きなイスラム教のモスク(清真寺)があり、またキリスト教の教会も存在して、多民族が混在する様子が見て分かる。山岳民族博物館を訪れれば、カレン族、ラフ族、茶にも関連が深いヤオ族、アカ族など少数民族も多く居住しており、まさに民族の坩堝だ。

 

チェンライ 山岳民族博物館

チェンライ郊外メーラオというのどかな村を訪ねると、忽然と茶畑が現れ、茶工場が見えてくる。天元茶行の経営者、ヒジャーブを被った納順安さんが笑顔で迎えてくれた。納さんがイスラム教徒であることは見ればわかるが、彼女の一族は中国雲南省から来た回族であった。

 

天元茶行 納順安社長(左)と妹さん

祖父は雲南省昆明市の南、現在の玉渓市通海県納古鎮の出身。この村は納と付く通り、元々は回族納家の村であり、今も多くの回族が暮らしている。更に納さんは驚くべきことに、「ここに居住した回族は、元々チンギスハンの末裔と呼ばれている」と言い、「チンギスハンの一族が雲南に住みつき、回族になった」というのだ。そして今も親族は雲南のその地に暮らしている。

雲南回族は馬、納などの姓を持つ。有名なのは馬幇と呼ばれ、中国とアジアを股にかけて活動した貿易商(運送業)であろう。近代でも雲南から東南アジアにかけての運送業は回族が独占していたと言われている。運ばれた物資には絹、紙、器、工具、アヘンなどがあったが、その中には当然茶葉も含まれている。

何故雲南回族は馬の扱いに慣れているのかは、これまで大きな疑問だったが、もしモンゴルの末裔であれば、その疑問は一気に氷解するような気になる。チンギスハンの末裔は中央アジア、西南アジアにも広く分布しており、雲南からタイ北部、ミャンマー北部に居ても何らおかしくはない。

調べてみると、納家の歴史は元代に遡り、クビライの雲南平定に合わせて西域回族も参戦し、雲南へ移住したのが始まりのようだ。元代、モンゴル帝国に仕えた行政官の多くはムスリムであり、雲南の地はその手腕を買われたサイイド・アジャッル・シャムスッディーン(中国名:賽典赤・贍思丁)が統治、徴税を行うと同時に、雲南開発に力を入れた。その事業は息子、ナースウ・ラッティン(中国名:納速拉丁)らに引き継がれるが、納家はこの納速拉丁の末裔(納速拉丁の納が姓となる?)だと言われているようで、チンギスハンまたはクビライハンとも姻戚関係があった可能性は十分にある。

雲南に入植した回族は農地開拓など屯田兵の役割を果たし、農業が主体ではあったが、一方豊富な鉱物資源を使った金属製品が多く作られ、その製品が遠くまで運ばれるようになる。納家の住む納古鎮は伝統的な五金製造技術に優れており、多くの匠を輩出した村としても知られており、それを馬班が運んだのだろう。

尚贍思丁と茶に関する伝説としては、雲南視察中に暑さで昏倒した際、回族の老人が家の椀に茶葉と干しブドウ、菊の花などに湯を入れて、蓋をして置いておいた。起き上がった贍思丁がこれを飲み、回復したことから、蓋椀茶が流行したというものがある。更に息子の納速拉丁は寧夏、陝西などに移動して、蓋椀茶が各地に広まったと言われている。

またなんと明の永楽帝の時代に遥かアラビアまで大航海をした、あの鄭和も納速拉丁の末裔、と記述するものもあり驚く。鄭和が宦官であることは有名だが、雲南回族の出であることはあまり知られていない。明代に入り、彼はなぜ永楽帝に重用されたのか、その過程と雲南回族の関連は興味深く、今後調べてみたいテーマだが、茶に関していえば、長い航海の間、船上で病気になるものが少なかった理由として、回族の八宝茶を飲んでいたから、という説明も見られる。

因みにチェンライ市内には大きな清真寺があるが、現在でも雲南系ムスリムを仕切っている顔役は、なんと鄭和の子孫だというから、ある意味でなるほどと頷いてしまう。いずれにしてもチェンライの位置づけの重要性にまで思いが至るエピソードだ。

 

新疆 回族の現代的なチャイハー

納さんの祖父は、第二次大戦前の1935年頃、騰沖市で茶業を営んでいた家の娘と結婚した。騰沖も回族が多く住む街であり、彼女も回族だったかもしれない。二人とも昆明の学校に通った文化人だったが、嫁の実家に住み、茶作りを学んだらしい。その後抗日戦争が始まり、二人は雲南からビルマを歩いて下り、タイ国境に辿り着いたが、そこで持ち金を失い、タチレクからタイ側の茶房と呼ばれる山中に入り、そこで小さな食堂や雑貨店を開いて生計を立てたが、生活は楽ではなかった。

 

チャイハーネの喫茶

 

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