第14回 タイ北部 雲南回族が作る茶(2)

2020-07-30 11:24:20

須賀努=文・写真

雲南回族でタイに渡ってきた納さんの息子、納広勝さん(1954年生まれ)は貧しい家計を支えるため、12歳にして近隣の山中の茶樹(いわゆる古茶樹)から茶葉を摘み、茶工場に売っていたという。誰よりも早く起きて良質の茶葉を摘み、工場からも好評だった。学校は歩いて山を越え、メーサローンまで通ったが、当時その地には国民党軍がビルマから逃げ込んでおり、その司令官段将軍にも気に入られ、可愛がられたという。

タイ政府から辺境地向けの支援の話があった際も、多くの農民が「作物の苗」を欲しがる中、まだ10代の納少年だけが、「道路がなければ作物は運べない」と道路建設を要望した話や他人が11回茶葉を運んでいたのに、彼は早起きして3回運んでいたことなど、その優秀さ、勤勉さは際立っていた。

 

天元茶行の茶畑

25歳の時、数人で茶樹が植わっている山を買い、緑茶を作って、タートンという街(チェンライまで川で輸送ができる)まで、道なき山道を馬で茶葉を運んだ。そこで同じ雲南回族の娘と結婚、茶業は順調で、山を買い増して生産量を増やしていったが、1980年代タイ産茶の需要が減り、転機を迎えた。1990年代メーサローンなどで台湾の支援により、烏龍茶作りが始まると、彼らも烏龍茶製造技術を学び、生産を開始する。

1997年現在の茶園がある場所に茶樹を植えることに決めた。環境は抜群だが元々はマンゴー畑であり、土地の人は誰もいいお茶が出来るとは思っていなかったらしい。ただ長年経験を積んだ彼は、台湾やベトナムにも視察に行き、低地(標高400m)でも良質の茶が出来ることを確信して、2エーカーの土地を購入。2001年本格的に生産開始、茶生産が増えると、近隣の農民から土地の売却話が多く持ち込まれ、気が付けば100エーカーの広大な茶畑となっていた。納さんは2009年に亡くなるまでお茶を作っていたという。

 

天元茶行の茶

その娘納順安さんはチェンライ大学で学び、更にメーファールン大学でMBAを取得。父親が亡くなるとその跡を継ぎ、女性ながら社長を務めている。やはりヒジャーブを被る妹はアメリカ留学から戻って来て彼女を手伝っており、女性ならではの視点で、ハーブティーなど新しい茶業に尽力している。現在はチェンライ市内に立派な茶荘を2つ開いて、観光客向けにも茶を販売し、チェンライ産茶の普及に努めている。

 

チェンライ市内の店舗

従来は台湾向けの輸出が殆どだったが、現在はオーガニック茶を中心にEUや米国への輸出を増やしており、また低価格の茶飲料原料は中国へ送っている。タイ国内の茶需要が近年伸びていることもあり、台湾へ輸出することはなくなったという。徐々に世界を股に掛けた茶貿易を展開していく納さんの姿は、如何にも回族らしくて実に興味深い。

そういえば前回納さんの話に出てきた、「雲南回族はチンギスハンの子孫」とは一体どういう歴史だろうか。チンギスハンがモンゴル帝国を打ち立てた時、その盟友にオングート族がおり、彼らがいなければ、チンギスハンの大帝国はなかっただろうとも言われている。

このオングート族は景教を信仰しており、元代にはこの景教が国の保護の下、大いに栄えたらしい。だが元もフビライの頃になると、景教からカトリックへ改修する人が増えたと言い、明代に入り為政者が変わると迫害され、その生き残りの過程で、景教徒は回教の中に溶け込んでいったとする説がある。

 

景教に関する書

これが正しいとすれば、チンギスハン(その末裔)と婚姻関係もあった景教徒が、回教徒に融合して、雲南地方に住んだ、というのは合点がいく。そして雲南回族に馬姓が多い理由も、回教徒のマホメットから取られたのではなく、景教に多いマールという姓が由来だと聞くと納得してしまうが、茶の歴史と離れてしまうので、考察はこの辺りまでとしたい。

更に余談となるが、タイの食べるお茶、ミエンについても考えてみたい。ミャンマーではラペソーというのに、タイではなぜミエンというのだろうか。ミャンマーで茶作りを始めたと言われるのはパラウン族であるが、パラウン語で茶を「ミャム」というらしい。ミャムは、何となく「ミエン(ミアン)」を連想させる。

ミャムは喉仏という意味だが「猟師が支配者から、鳥の喉から得た茶の種を与えられた」ことに由来するらしい。世界の言語上、茶を表す言葉は「Cha」か「Tea」の2系統しかない、とよく言われるが、この地域の言葉はどちらとも関連がないようにも見えて実に不思議だ。

 

タイの食べるお茶ミエン製造

ミエンはタイで噛み茶とも呼ばれ、ラペソーとほぼ同じ製法で作られているのに、その呼び名に関連性は見られない。ただ一説には中国語の「茗(現代発音ではミン)」からその名が取られたとも言い、タイに入った食べる茶は、パラウン族のミャムと合わせて、中国から持ち込まれた可能性が大きくなる。また茶の伝播に関連があるとみられている瑶族は、自らをミエンと称していることも大いに注目され、この地域と茶の起源については、もっと深い考察が必要となる。

 

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