第21回 ベトナム 波乱万丈の華人伝

2021-03-25 15:17:00

須賀努=文・写真

  ベトナム茶の歴史がベトナムに行っても分からないなら、外から攻めてみようと、1920-30年代大量の茶葉を輸出していた台湾で尋ねてみた。実は台湾には現在数十万人のベトナム人が出稼ぎにきているが、その流れを遡ると、ベトナム戦争終結と共に国外に脱出した華人の歴史に行き着いた。

 

ベトナム華僑の林少英さん(右)

  台北茶商公会の総幹事から一人の女性を紹介された。ベトナム華僑、林少英さん。現在台湾で音楽を教えており、茶業の歴史は詳しくないと言いながら、伯父さんが書いた1冊の本を見せてくれた。彼女のルーツは、日本統治時代汕頭に本拠があり、台湾から茶葉を東南アジアへ輸出する大手茶行であり、台湾光復後は香港経由でベトナムに茶を輸出、そして中国の解放後はホーチミンに逃れ、そこで彼女が生まれた。

 

ホーチミン ショロン 最近のお茶屋

  彼女はホーチミン郊外の華人街ショロンに暮らした幼少期、ダラットの紅茶作りなどを見た記憶もあるといい、南ベトナムでのお茶の様子が少しわかった。ただベトナム戦争終結とともに、また海外脱出を余儀なくされ、親族の一部はアメリカへ、彼女らは台湾に移住した。

  因みに林さんは自らを客家の出であると名乗った。お話を聞く場所として使わせてもらった台北の茶荘老板が「私も客家ですよ」と言いながら、上海で手に入れた古い茶(香港栄新茶行)を持ち出し「この包装にある象マークはお宅のでしょう」と言ったので、本当に驚いた。お茶はどこで繋がっているか分からない。

 

香港栄新茶行 象マークの包装

林さんから聞いた話をもとにその祖先について調べると、台湾包種茶に行き当たる。包種茶は、当時烏龍茶と並ぶ2大輸出商品であり、福建では烏龍茶に花を混ぜていたが、その後台湾の特産品になり、この時代には発酵茶に花をつけずに自然な花香がする台湾包種茶まで登場するようになった。

1920年代に台湾から東南アジア向け包種茶輸出で活躍した護記泰昌という屋号(三隻羊マーク)の陳護臣という人物が出てきた。陳護臣は林さんの母方の祖父だという。また協盛という屋号の陳師平など、当時一族数人が茶貿易拠点、台北大稲埕で羽振りが良い茶業者に挙げられている。その主要輸出先はベトナムとタイ。

台湾茶の歴史を少し遡ると、1915年の台北茶商公会の会員名簿に、豊盛号の陳協宜と悦記号の陳秋生という2人が載っている。この2人が汕頭を拠点に茶貿易を行っていた陳一族ではなかろうか。台湾からベトナムとタイ向け包種茶輸出を独占していたと書かれている。

ただかなりの貿易量を持っていたにも拘らず、公会の幹部リストに名前はない。当時台湾を植民地化していた日本の総督府が、茶貿易で巨大な利益を上げていた華僑の排除を目論んでおり、公会員を徐々に台湾籍商人に限定した事情による。恐らく1920年代の陳護臣らは台湾籍となり、大稲埕に居を定めて商売をしたのだろう。

因みに台北で豊盛号と名乗っていた陳協宜の店舗は、汕頭では護記、ベトナムでは寛記、タイでは美和とその名称を変えている。だが悦記号の陳秋生の場合は、汕頭、ベトナム、タイ共に、同じ悦記を使っているのは面白いが、その理由は現時点ではよくわからない。

1930年代台湾の包種茶輸出は増加していくが、その輸出先に変化が生まれる。世界恐慌の影響もあり、また徐々に戦争の気配が漂うことで、包種茶輸出も旧満州や沖縄など、日本の勢力圏に向かっていく。1937年の茶商公会の会員名簿から、護記や悦記などが消えているのはそんな理由からだろう。

ただ台湾茶商公会は総督府の指示もあり、タイやベトナムで台湾茶の市場開拓、プロモーションを実施した。タイでは1939-41年にかけて3回博覧会に参加、タイ美人を雇って無料で茶を配り、試飲させたとの記録も見える。ベトナムでも1941年にハノイ、1943年ホーチミンの博覧会で台湾茶を売り込んでいる。タイは中立国、ベトナムは日本軍の侵攻によりこの時代は日本の支配下にあったという事情だろうか。

 

台北市茶商業同業公会会史

戦後新しく組織された台北茶商公会の名簿(1949年)を見ると、陳協盛茶行の名で陳傳治が登場している。陳傳治は1914年潮州鳳凰で生まれ、潮安県立中学で学んだが、1929年勉学を捨て、茶商への道を歩み始める。香港に信成茶行を創設し、その後父の事業であった潮安協盛茶行を引き継いだ。華僑向け運送、為替業にも手を広げ、成功を収めた。

 

陳傳治

陳傳治は1949年に潮州からベトナムに渡り、その後ベトナム最大の茶商になったという。戦後の台湾茶輸出は香港を経由して続けられた。台北に陳協盛の看板を出したものの、実際の業務は祥泰茶行が代行、茶葉供給ルートは確保されていた。

陳傳治はホーチミン移住後わずか数年で茶業に成功、その後は食品やプラスチック事業にも手を広げ、ベトナム有数の華人となる。だがベトナム戦争が始まり、1975年のサイゴン陥落に際して、アメリカに再度移住した。その後南カリフォルニア州で暮らし、現地の潮州会館の最高顧問になったという。ここで茶業の痕跡は完全に途絶えた。

 

 

 

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