漬物
私が子どもの頃は、漬物を引き売りする人が鳴らす鈴の音が早朝の町に響きわたっていた。押し車の上で整然と並んだ味噌漬けや醤油漬け、豆類、腐乳(塩漬けした豆腐を干して塩抜きし、調味液に漬けたもの)、アヒルの卵の塩漬け、肉でんぶ、魚でんぶなどに虫除けの薄布がかけられているさまは、いかにも品ぞろえ豊富で清潔な印象を与えていた。朝餉の「おかゆの友」を買いに来る女性たちはそろって寝間着にすっぴん姿だったから、漬物を売る人はどの家の女性が一番美しいか知っていたに違いないと、私は思っている。
中国画の巨匠・張大千先生(1899〜1983年)がご存命の頃、母に連れられた私は先生の住まいだった摩耶精舎で食事をごちそうになったことがある。食堂裏の中庭の壁際には、泡菜(主に香りや辛味で風味をつけた塩水で作る漬物を指す)が入った大小のかめが並べられていたが、素焼きもあれば美しい釉薬がかかったものもあり、さまざまだった。かめがずらりと並ぶその様子は、外双渓に面した庭にあった、先生が自らデザインした大きなバーベキュー台とともに、今もはっきりと覚えている。
後年、私は張先生の末娘の心声さんと一緒に、史跡として公開された摩耶精舎を再訪したが、高さがきちんとそろったかめを見た彼女は、「違う、これは私たちが使ってたものじゃない」と声を上げた。実際のかめは大小ふぞろいで、口の周囲は脱気するための水が溜められるよう、皿状になっていたという。泡菜は中国津々浦々で見られるものだが、「四川泡菜」は一番有名なものだろう。四川出身で美食家でもあった張大千先生の漬物作りは、当然ながらこだわりにあふれたものだった。
四川泡菜で最も大切なのは容器の気密性なので、空気を通さない陶器か磁器で作られたものを使うことが多い。その良し悪しを見るには二つの方法がある。一つはかめに耳を当てて聞こえる反響音が大きいほど良いというもので、もう一つは火をつけた紙を数枚かめに入れてフタをし、脱気用の皿に水を注ぎ、それがすぐに吸い込まれれば気密性が良いかめというものだ。漬物づくりに何より必要なのは、酸素のない環境で速やかに発酵させることなのだ。
漬物文化からは、中華民族の節約を重んじるつつましさが見えてくる。冷蔵庫のなかった時代、食材を保存するための工夫として漬物が発展し、鮮度と食感を求めて容器と技法に工夫が凝らされた。漬物はそれだけで食べてもご飯が進むし、他の食材と組み合わせても素晴らしい料理に変身する。中国八大料理に数えられる四川料理だが、時折本場の味とは違うな、と思わせる料理に当たることもある。それはおそらく、使っている泡菜が本場のやり方とは違うからだろう。
四川泡菜に向く野菜は、カラシナ、ダイコン、ニンジン、キャベツ、ササゲ、中国セロリ、ハクサイ、コールラビ、唐辛子、インゲン、茎チシャなどだ。歯ごたえのある野菜であれば、根、茎、葉、実のいずれを使っても泡菜になる。ミョウガ、茎チシャ、新生姜などは辛味を抜くために塩水に一晩漬け、キュウリなどの水分が多い野菜は、他の野菜とは別に漬けたほうがよい。
普通の漬物は古漬けになると酸っぱくなり食感も悪くなるが、トウガラシやショウガは1年以上漬けておいても大丈夫だ。前述の心声さんが家で使っていた泡菜用のかめは、漬けるものや用途によって大きさが違っていたという。私の実家には泡菜専用のかめがなくて普通のを使っていたので、油紙かビニールで密封していた。
泡菜の味は中国語で「母水」と呼ばれる、野菜を漬けることで塩水が乳酸発酵した漬け床で決まる。野菜の水分で濃度が薄まるので、新しく漬ける時に塩、山椒、ショウガ片、白酒を適量足して塩味と酸味のバランスを取る。母水は使うほどに味がよくなっていくもので、昔の四川では、母水を嫁入り道具の一つとして娘に持たせる風習があったという。
四川人が最初に母水を作るときには、クセがなくカビが生えにくいという理由で必ず生水を使う。使う塩が違えば、母水の味も変わってくる。四川の塩は井戸から採取した「井戸塩」で、私たちが普段使う海塩とは多分味もいささか違うはずだ。わが家のお手伝いさんによると、四川の人が泡菜によく使う臙脂蘿蔔(重慶涪陵名産の紅芯大根)は、母水の風味づけとしても、またカビ防止としても優秀なのだそうだ。
四川泡菜の他にも、中国にはその地方独自の「漬ける文化」がある。今でこそさまざまな味の「泡菜」があってどれもおいしいが、地理的にも文化的にも特別な四川の泡菜は、他の地方の「泡菜」とはひと味もふた味も違う。
さて、その作り方はというと、まず根っこの硬いところや黄色くなった葉を取り除き、洗って拍子木や乱切りに切るか手で大きくちぎった後、天日干しにする。かめに入れてから母水を注ぎ、塩、ショウガ片、山椒、白酒、唐辛子などの基本材料を加える。母水が塩辛ければ少し取り分けて水を足せばよいが、取り分けた母水は立派なお宝なのだから、決して捨てたりせずに友人知人にあげればよい。
台湾在住の客家人も、漬物作りに長けている。葉物は主に芥菜(高菜)を漬けるが、季節に応じて酸菜(酸っぱくなった古漬け)、ザーサイ、客家福菜(塩漬け菜を干したもの)、梅干菜(客家福菜よりさらに干し時間を長くしたもの)、雪里蕻(日本のカラシナに似た葉物、塩漬けにする)などを漬ける。瓜類ではトウガン、キュウリ、茭瓜(韓国カボチャ)、メロン、ニガウリなど、非常にバラエティに富んでいて味もさまざまだ。梅干菜のように漬けてから長時間干す漬物は長期保存がきくが、漬け汁に漬かっているタイプのものは、清潔で油気のない箸で取り出さないとカビが生えたり風味が悪くなったりする。
交通や物流が発達した今は、保存のきく一部の漬物が海外の中国系スーパーでも手に入るようになり、海外に暮らす人たちにとっては、ふるさとの味に出会える貴重な存在となっている。米国に行ったときに米国在住の中国人の友人が教えてくれた「醤瓜鶏」は、ぶつ切りにした鶏肉、醤瓜(瓜の醤油漬け)の瓶詰めを漬け汁ごと、缶ビール一本と一緒に鍋に入れて煮込むだけ、というものだった。ビールの泡効果で醤瓜の漬け汁の味がすぐに鶏肉に染み込むので、あっという間に出来上がる。慌ただしい日々の中、手元にある中華食材と現地食材でなんとかふるさとの味を……という思いが生み出した、まさに知恵の結晶だ。