ライシャワー 日米対等化を目指す

2020-03-26 16:55:19

劉檸=文

孔子の言葉に「学而優則仕(学びて優なれば即ち仕う)」とあるように、古くから学問に秀でている者が役人になることは多いが、大使にまでなれる者はごくわずかだ。一人よく知られているのが、エドウィン・O・ライシャワーだ。彼は米国を代表する日本研究のパイオニアで、戦後米国の対日政策や対中政策に挙足軽重の影響力を持った。

ライシャワーは1910年1015日、東京にある明治学院内の宣教師住宅で生まれた。16歳で米国に渡った時にはすでに歴史や国際問題について学術的関心を強く持っており、33年にハーバード燕京研究所に入り、東アジアの研究を行った。37年、彼は北京に赴き、燕京大学で中国語を学んだ。その後、次第に米国でもトップレベルの東アジア問題研究者に成長し、影響力は学界から政界へと広がった。

60年夏、ライシャワーは第1次「安保闘争」が終息したばかりの日本を訪れると、帰国後間もなく、論文『日本との損なわれた対話』を発表。米国をはじめとする西欧諸国に、日本政府や財界と手を組むことばかりに気を配るのではなく、野党や右翼・左翼活動家、左翼知識人とも交流し、色眼鏡で見ず、幅広い視野を持ち、非主流層の生活実態や彼らが抱えている不満を積極的に把握するよう呼び掛けた。その建設的な態度はホワイトハウスから注目され、ケネディ政権が誕生するとすぐに、駐日米国特命全権大使に任命された。

ライシャワーは赴任後、自らの主張を貫徹し、ケネディ政権が強調するいわゆる米日の「イコール・パートナーシップ(対等な関係)」を積極的に推し進め、高度経済成長前期に、両国の「蜜月絶頂期」を演出してみせ、世界からは「ケネディ=ライシャワー路線」と呼ばれた。

研究者としてのライシャワーは一貫して、知識によって誤解を解き、自らの行動で懸け橋を築き、米日両国の相互理解を促進するという大きな志を持っていた。大使の任期中には日本の都道府県をほぼ全て訪れた。64年3月24日、彼は米国大使館前で精神科治療歴のある青年に刺されて重傷を負った。生命に関わるこの時に、彼は横須賀基地の海軍病院への搬送を拒否し、日本の医師による治療を選んだ。輸血を受けた後には「私は日本の生まれだが日本人の血統ではなかった。しかし昨日、大量の日本人の血液を輸血したので、自分がすでに日本人と血を分けた兄弟になれたと感じる」と述べた。ところが不幸なことに、この輸血が原因で彼はC型肝炎を発症、その後長期にわたって苦しめられた。

ライシャワーは生涯にわたって日本を深く愛した。65年の著作『ライシャワーの見た日本』では、まず第1章の章題を「われわれの隣邦日本」としている。こうした日本認識は、広大な太平洋を考慮すれば、中日間の「一衣帯水」の言い方よりさらに気持ちが深く、より思い入れが強く、より寄り添っている。

66年8月、大使としての任期が終わると、ライシャワーは離任の直前、米国国務省に連絡し、米中関係改善を強く訴えた。また68年2月には、命令を受けて起草した『対中政策覚書』をリンドン・ジョンソン大統領に送った。73年、日本の国際交流基金から資金援助を受けて、ハーバード大学に日本研究所を設立、後にライシャワー日本研究所と改称した。

90年9月1日、ライシャワーは肝炎の合併症によって亡くなった。遺言に従って、遺骨は日米間の太平洋海域に散骨された。没後30年を経ても、彼の行動によって築かれた無形の懸け橋は確かに存在している。

 

駐日大使時代のエドウィン・O・ライシャワー。駐日米国大使館執務室にて(写真提供・筆者)

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