倉石武四郎 現代中国語教育の開拓者

2021-11-26 16:01:42

劉檸=文

 

中国語学者、中国文学者の倉石武四郎(1973年撮影、写真提供・筆者)

中国語学者、中国文学者の倉石武四郎(1897~1975年)は経学から文学、語学研究へと向かう学術の道を歩んだが、これは同時代の漢学者とは全く異なっている。

正統な教育を受けた中国研究者である倉石は、当時広く行われていた学習方法、つまり漢文訓読法に対して早くから疑問を持っていた。当時、日本では英語やドイツ語、フランス語を学ぶ場合、レベルがどうかは別にして米国人やドイツ人、フランス人と同じように、読むべき通りに読んでいたが、中国語を学ぶ時だけは訓読法を用いていた。彼は後に「原文を見ながら、その漢字をひっくり返していちいち日本語にして読んだ。第一、とてもまだるっこくてしようがないということを感ずるようになりました」と振り返っている。江戸時代の思想家・荻生徂徠もかつて、漢文訓読法に反対し「唐音直読」による漢文古典解読法を主張したが、鎖国政策という障害により成功しなかった。倉石の学術理念はある意味で、荻生徂徠の思想に対する隔世遺伝、時空を超えた応答であると言えるだろう。

1928年から30年にかけて、倉石は北京に留学した。留学期間に彼は、魯迅や章炳麟、胡適、陳寅恪ら大物文化人から直接教えを受けただけでなく、学問の基礎を固め、学術研究の方向を明確にした。30年8月に帰国すると、その後は京都大学や東京大学で教壇に立った。49年には日本中国学会の設立を主導し、51年には日本最大の民間中国語専修学校、日中学院を創設、またNHKラジオの中国語講座を担当した。倉石は中日関係の転換期に日本の中国学研究を支えた人々の代表的存在であり、自らの研究分野で極めて大きな成果を収めただけでなく、新しい世代の中国学研究者を育て、中日交流に大きく貢献したと言える。

しかし倉石は、日本の漢文訓読法の伝統を打破し、中国人が話すように中国語を学ぶことができるようにしたいという考えを忘れることはなかった。このため彼は中国大陸部の文字改革運動を終始追い続け、どんな細部も見逃さず、そのエッセンスを日本の中国語教育と自らの「舟を編む」事業に取り入れるよう努めた。63年、13年にわたる編さん作業を経てついに『岩波中国語辞典』が出版されると、大きな反響を呼び、「中国語学界の金字塔」と称された。この辞典では58年に公布されたピンイン(中国式表音記号)方式の成果を取り入れ、完全にアルファベット順に引ける方式を採用した。また、老舎の文学作品から多くの新鮮で生き生きとした言葉を収録、学界で「画期的で、実際をよく反映した中国語辞典」との定評を得て、岩波書店のロングセラーになった。

続いて、倉石は日本語を中国語で説明する『日中辞典』の編さんを計画したが、残念ながら彼は75年にこの世を去った。しかし、弟子の折敷瀬興が遺志を継いで編さんを続け、83年2月に『岩波日中辞典』の出版にこぎ着けた。この辞典は現代日本人が中国語を学習するための重要なツールとして、現在も重版され続けている。また97年には中国の商務印書館から中国語簡体字版が出版され、2003年には第2版が出ている。

東京文京区後楽にある日中学院には現在も、「中国語を学んで日中友好のかけ橋になろう」という初代学院長・倉石武四郎の遺墨が大切に保存されている。

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