和歌に接したいきさつ

2021-01-13 15:48:49

劉徳有=文

和歌を詠む吾は和人にあらぬ故

言葉のあやに頭悩まし

 

5年間続いた連載も、この辺で何か新しい趣向がないものかと思いあぐねていたときに、ふと思いついたのが「和歌」。

「和歌」と言っても意味が広く、ものの本によると、長歌・短歌・旋頭歌・片歌などのように五・七音を基調とした定型詩のことを指していうが、後に短歌(5・7・5・7・7)が和歌を意味するようになったとある。中国人である筆者にとって、和歌は苦手だが、日本語に「下手の横好き」という言葉があるように、たまに、見よう見まねで「和歌・短歌」らしきものを作って自分で楽しむことがある。というわけで、下手を承知で向こう1年間、自己流の「和歌」を毎号1首ご披露に及び、それにまつわる見聞、逸話などを書いて、読者諸氏の一笑に供したいと思う。

ところで、中国と日本の「和歌・短歌」との関係だが、詩歌と言えば、中国は昔から五言や七言の絶句、律詩および宋代になって盛んになった「長短句」の「詞」が発達したが、日本のような「和歌」や「俳句」は生まれなかった。二千余年の長きにわたって両国の間に間違いなく交流があったにもかかわらず、それぞれの発展を遂げて今日に至ったということであろう。

大連生まれの筆者が最初に「和歌」に接したのは戦前の小学校4年のときだったと記憶している。受け持ちの先生が岡山県出身で趣味が多く、俳句もやれば詩吟もやり、尺八も吹けば碁もたしなむ、といった具合で、学校でも、時々「新機軸」を出してみんなをアッと言わせた。その先生がある日、「今度の学芸会では面白いものをやってみよう」と言って、僕らに狂言『萩大名』をやらせた。クラスから3人選ばれたが、私もそのうちの一人。役の振り当ては大名や冠者でなく、庭の主だった。この狂言の中に、

七重八重九重とこそ思いしに

十重咲き出ずる萩の花かな

 

という和歌が登場する。無風流で物覚えの悪い大名に、冠者が聞き覚えのこの和歌をにわか仕込みに教えようとするのだが、どうしても覚えられず、失敗を重ねる大名の醜態を風刺した狂言である。まだ子どもだった当時、「古典劇」という言葉は知らなかったが、日本にこんな面白い芝居があるのかと思い、さらには、和歌のことを「三十一文字」ということも知った。ずいぶん後になって気が付いたのだが、和歌は「三十一文字」というより、「三十一音」の方が正確ではなかろうか。

北京に住んでいて、普段、和歌に接する機会は滅多にないが、いつだったか、裏千家のお茶会に出席したとき、藤原家隆(1158~1237年)の和歌が紹介された。

花をのみ待つらむ人に

山里の雪間の草の春を見せばや

 

お点前に出された白色の和菓子の上にチョコンと小さな緑の飾り付けが載せてあって、いかにもかわいらしかった。まだ雪が残っている北京の季節に合わせて、「雪間の草」をかたどったものであると言われ、この歌を教えてくださった。

裏千家の千玄室大宗匠のお説だが、「家隆の歌は花というはなやかなものに山里の雪間の草を対比させているのであって、はなやかなものより、雪間の草を好もしいものとみて」いる。家隆のこの歌は日本の美学の理念である「わび」の心境を歌っており、千利休は、雪に覆われた大地と萌え出る草の芽から、「わび」の「動」の一面を見いだし、「わび」には静寂、空無、陰性の面があると同時に躍動と陽性の一面もあり、生き生きとした豊かな生命力を持っていることを発見した。千玄室氏は、この点こそ日本人の気質を一番よく表しており、また外国人にも理解しやすいのだと力説しておられる。

さて、中国で一番よく知られている和歌はと言えば、阿倍仲麻呂の

天の原ふりさけ見れば春日なる

三笠の山に出でし月かも

 

であろう。阿倍仲麻呂は19歳のとき、遣唐留学生として、唐に渡り、名を「朝衡(晁衡)」と改め、玄宗皇帝に仕えたが、35年後に、日本に帰ろうとして明州――今の浙江省寧波の海辺で唐の友人たちと別れの宴を催した。美しい月を眺めながら故国を思い、詠んだのがこの歌である。仲麻呂の乗った船は海上で嵐に遭い、安南(今のベトナム)に漂着したが、再び万難を排して唐に戻り、粛宗皇帝に仕え、秘書監、衛尉卿や安南都護などの高位にまで上り詰めた。ところが安南漂着が当時の長安には遭難と誤って伝えられ、友人の李白は七言絶句を作り、心から悼んだ。

 

日本の晁卿 帝都を辞し

征帆一片蓬壺を遶る

名月帰らず 碧海に沈み

白雲愁色蒼梧に満つ。

 

今、西安市の興慶公園に阿倍仲麻呂記念碑が建っており、碑の両側に李白のこの詩と仲麻呂の「望郷の歌」の漢文訳が彫られている。

翹首望東天 頭を翹て東の天を望み

神馳奈良辺 神は奈良の辺に馳せる

三笠山頂上 三笠山の頂上に

想又皎月円 またも皎き月円しとぞ想う

 

詩の翻訳は難しく、訳者によって持ち味が異なるが、この訳は誰の手になるものかつまびらかではない。しかし私には、西安の学者・劉徳潤氏の訳の方がむしろ原文に近いような気がする。

 

長空極目処,万里一嬋娟。

故国春日野,月出三笠山。

 

西安市の興慶公園にある阿倍仲麻呂記念碑(写真・沈暁寧/人民中国)

 

これは北京の「外語教学与研究出版社」発行の中国語訳『小倉百人一首』に収録されている訳である。このように、和歌は俳句同様、中国でも翻訳出版されているが、まだ多いとは言えない。

(ちなみに、筆者も試みに和歌の形を借りて、漢文式の短歌に訳してみた。

回首望蒼天,海濤千里共嬋娟。疑是来時月,

昇自奈良春日野,微官故土三笠山。

私自身、これまでに万葉集はじめ現代人の和歌も含めていくらか接してはきているものの、現代人の和歌・短歌と言えば、1988年に中日友好21世紀委員会に出席するため東京に赴いたとき、お世話になった外務省のアジア局長・藤田公郎氏から、「今、日本で大変ポピュラーになっているこの本を読まれたら」と言って、1冊の本を渡された。

俵万智さんの『サラダ記念日』である。現代日本語で詠んだ和歌に強烈な新鮮味を感じたのを今でも覚えている。

これから1年間、毎号、本誌に和歌を1首作るというのは、辛いけれど楽しみでもあろう。微力ながら挑戦してみたい。

為せば成る為さねばならぬ何事も

成らぬは人の為さぬなりけり

 

俵万智さんの『サラダ記念日』(劉徳有氏提供) 

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