変貌する中国

2021-10-29 17:46:53

劉徳有=文

五つ星輝く国旗はためきて

十四億の民幸溢れ

新しい中国——中華人民共和国は、「五星紅旗」=「五つ星の赤旗」の呼び名で親しまれている国旗の下、今年の10月1日に72回目の誕生日を迎えた。

まず「五星紅旗」のデザインから話を進めよう。

 

天安門広場に掲揚される五星紅旗(新華社)

「五つ星の赤旗」を考案したデザイナーは、上海「現代経済通信社」勤務の曽聯松氏。新中国成立直前の1949年7月、曽氏がデザインを終えて応募したところ、ノミネートされた38点のうちの一つに入った。初めは、大きな星の中に鎌とハンマーが描かれていたが、ソ連国旗に類似していることから、審査の結果、鎌とハンマーは取り除かれた。9月25日、毛沢東主席は自ら座談会を開き、五星紅旗のデザインについて次のように述べて、賛意を表した。「大きな星は中国共産党を象徴し、五つ星の赤旗は中国の革命人民の大団結を表している。現在だけでなく将来も大団結が必要であろう。団結あり、革命ありで、結構じゃないか」

五星紅旗はこのようにして、新中国成立の前夜——49年9月27日、中国人民政治協商会議の第1回全体会議で、中華人民共和国の国旗として正式に決定された。

あれから72年、いろいろと紆余曲折はあったが、貧困のどん底にあえぎ、立ち遅れた悲惨な旧中国が見違えるように大きな変貌を遂げ、新生の中国に変わった。中国は確かに5000年の長きにわたる文明の歴史を有し、人類の歴史に不滅の貢献をなしてきたが、周知の通り、近代に入って以降、内外の各種災難にさいなまれてきた。しかしアヘン戦争後の110年間に、中国はついに民族の独立と人民の解放を勝ち取り、さらに新中国成立後の70余年の間に中国人民は社会主義体制の下、次第に富強へと進む偉大な飛躍を遂げ、さらに改革開放後の40年余りの間に、大幅な国力の増強、人民生活の向上と国際影響力の増大を実現するという奇跡を生み出した。

ここで、筆者の体験と実感を交えながら、生活向上に焦点を当ててつづってみたい。

全国解放当初、中国は戦争の痛手を癒しながら経済の再建に取り組む一方、帝国主義者による攻撃や「封じ込め」を打破しなければならない厳しい情勢下に置かれていたため、人民はやむなく切り詰めた生活を送らざるを得なかった。政府は計画経済を遂行する中で、人民生活と密接な関係のある商品について、「計画的供給」つまり「配給制」を施行した。自転車や腕時計、ミシンなどの工業製品は切符制を実施し、くじ引きで当たった幸運な者だけが購入できた。肉類や砂糖、豆腐、卵なども毎月購入量が決められており、「購物本」という通帳のようなものに登録されることになっていた。布や食用油、食料などの供給も切符制がとられていたが、例えば穀物は男女別、職種別、年齢別によって配給量がそれぞれ異なっていた。筆者のようなホワイトカラーはひと月約14㌔、一般市民は15㌔、中学生は16㌔、重労働者は約25㌔。ほとんどの家庭でお互いに融通し合ってやりくりしていた。穀物の切符は中国語で「糧票」といって、目方が印刷されており、職場や町の食堂のどこへ行っても食事をする際に必要だった。出張で外地へ出掛けるときは、北京市内用の「糧票」をあらかじめ「全国糧票」に交換しておかなければ通用しなかった。筆者が時々人民大会堂に行って、日本から来られた代表団の歓迎宴などの通訳をするときも、「糧票」の提出を求められたが、1960年代の初めごろ、こんなことがあった。

 

1955年発行の「全国糧票」(新華社)

人民大会堂でLT貿易の高碕達之助氏の招宴のとき、通訳の私が中日双方の話を交互に訳すのに夢中で食事する暇がないのを見て、周恩来総理は宴会が終わった後、ウエーターにテーブルの上の料理と点心を包んで通訳に持って帰ってもらうようことづけた。食料品の供給のままならぬ時期に、うちに帰っても困るのではと思われたのだろう。帰宅後、妻にこのことを話し、二人で「周総理からのお土産」をおいしくいただいた。民衆の生活実態をよくつかみ、民衆と気持ちが通い合っていた周総理の温かい人間味と思いやりに、今でも妻と思い出しては幸福感に浸り、感謝と感激で胸がいっぱいになる。

このように40年ほど続いた食料や日用品などの切符制も、1985年ごろから永遠におさらばとなった。この70年間に穀物の生産高は5倍近くも増産し、しかも年々増産している。また、生活必需品も豊富多彩に出回り、人民の日々の生活を潤している。

さて、解放後北京の一般家庭の炊事には、炭団を燃やすこんろが広く使われていたが、筆者の家もご多分に漏れずこのようなこんろを使い、うちわで火を起こしていた。64年、新聞記者で東京駐在になったとき、住まいにあてがわれたアパートで初めて自動点火のガスコンロを目にしたとき、こんなに便利なものがあるのかと珍しくもあり、不思議でもあった。ところが、改革開放後の今日、北京では全ての家庭が炭団を燃やす昔のこんろからLGに、さらにLGから一般のガスに変わり、今やほとんどの家庭で自動点火のガスコンロが使われるようになり、空気の浄化に貢献している。

次に、交通機関について。マイカーの普及はここでは省くが、この10年間、中国の高速道路は全国にはりめぐらされ、目も見張るばかりの発展ぶりである。「高鉄」と呼ばれる新幹線も全国に縦4本、横4本が開通した後、さらに縦、横それぞれ4本、合計16本も敷設された。「復興号」と呼ばれる新幹線列車は時速350㌔のスピードで走っており、今や「一帯一路」沿線のいくつかの国で、導入の話が進められているようだ。

2、3年前、中国を訪れた日本の元外相・川口順子氏の話を聞いてみよう。「私が最初に訪中したのは20世紀の80年代の中ごろでした。そのころ、町の人はみんな自転車に乗り、古めかしい中山服を着ていましたが、今はすっかり変わりました。いま中国で見る女性も変わり、自分が日本にいるのか中国にいるのか分からないほどです。町の多くのところで工事が進められ、緑も増えました。中国のウイーチャットペイはスゴイと思いました」

中国は、昨年末までに計画通り、これまでに残された7000万人に上る「絶対的貧困」人口をなくし、人民全体の生活レベルを「全面的小康」水準にまで引き上げるという当初の目標を見事に実現した。また、西側の国々が二、三百年の歳月をかけて歩んだ道のりをわずか数十年間で歩み終え、GDP(国内総生産)を78年の3000億元余りから昨年の101兆6000億元にまで引き上げ、一躍世界第2の経済規模を持つようになり、1人当たりのGDPも1万㌦に達した。もちろん、人口1人当たりのGDPはまだまだ多いとは言えず、いろいろな問題も抱えているが、「文革」の混乱で中国の経済が一時期崩壊の瀬戸際に立たされたことを思うと、われながら隔世の感をまぬかれない。

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