李白や杜牧魅了した山水 次世代に託す伝統の歌声

2023-07-26 14:23:00

蔡夢瑶=文

李昀=イラスト


牯牛降自然保護区の緑の山々に囲まれた徽派建築群(写真提供・石台県牯牛降観光エリア)

「借問す酒家は何処に有りやと、牧童遥かに指さす杏花村」。今から千年以上前、唐代の詩人杜牧の詩『清明』により、「杏花村」という地名は中国でよく知られるようになった。だが、詩の中の「杏花村」が現在の安徽省池州市という美しい町にあることはあまり知られていない。千年もの間、この地を流れる秋浦河は、数え切れないほどの詩的な伝説をここに運んできた。


千年の歴史ある詩の町 

安徽省の南西部に位置する池州市は、貴池区、石台県、東至県、青陽県の四つの行政区から成り立っており、至る所に美しい自然風景が広がっている。上空から見下ろすと、南の連なる山々は黄山山脈に直結し、中央の丘はなだらかで、北のくぼ地の発達した水系は長江に通じている。町全体が、湖と山が引き立て合う絶景に囲まれているため、「一池山水」とたたえられている。 

古今の文人たちはこの「一池山水」に魅了され、ここで多くの詩を残した。中でも、李白や杜牧、包拯などの歴史上の有名人が池州の山水を訪れた逸話が後世に伝えられている。 

池州の「山」と「水」 

池州の「山」といえば、人々はまず中国仏教四大名山の一つである九華山を思い浮かべる。「蓮華仏国」と呼ばれる九華山は、数多くの峰々が競い合い、奇岩がそびえ立ち、九つの主峰が九輪の蓮華のようにさまざまな姿を持ち、それぞれの風格を備えている。山々の間には渓流や淵、滝、湧水が点在し、四季折々に雲海や日の出、霧氷などの自然の奇観が観賞できるため、写真愛好家の聖地となっている。 

山中の展望台に立ち、遠くを眺めると、連なる山々はまるで自然にできた寝仏のような形をしている。大小さまざまな寺院が山間に点在し、山道を蛇行しながら上る参拝者たちが絶え間なく訪れる。時折、法会に参加しに来た各地の僧侶たちが、異なる僧衣をまとって、あいさつを交わしている。 

719年、新羅の王子金喬覚は唐に渡り、九華山で75年間苦しい修行を積んだ後、この地で入寂した。彼の事跡に引き付けられ九華山を訪れる韓国人観光客も多く、九華山は次第に世界的に有名な仏教文化の聖地となった。 

一年中絶え間なく観光客が訪れる九華山と違い、池州市石台県にある牯牛降国家級自然保護区は、静かで幽玄な美しさを持っている。牛降は黄山山脈から西に延びており、かつては「西黄山」と呼ばれていた。山の形がまるで天から降り立った牛(雄牛)のようであることから、「牛降」と名付けられた。 

標高1727牛降山地は、数億年前の造山運動によって形成され、約7000万~200万年前の古代の動植物が豊富に保存されており、「緑の自然博物館」と称されている。山麓の木々の間には、白い壁と黒い瓦の徽派建築群がある。ここは「厳家古村」といい、後漢の隠者厳子陵の子孫が暮らしている。村の「罰戯碑」には、古い伝統――無断で木を伐採した者は罰として3日間芝居を演じ、村人に10テーブル分の酒宴を振る舞わなければならない――が記されている。 

村民に代々守られてきた村の四方にはうっそうとした古樹の林が広がっている。この生物資源の宝庫をより良く保護するため、牛降は現在、一部地域のみを観光客に開放している。人が足を踏み入れない山間に広がる原生林から湧き出た泉水が川となって流れ、両岸の奇石や古木、さらに水辺のいかだに乗った観光客が共に水面に映り、きらめく波に溶け込んでいる。 

泉のほとりに小さなテーブルを置き、せせらぎを聞きながら、清らかな泉水で地元特産の「富硒茶」(高セレン茶)を入れることは、同地特有のリラックス方法だ。牛降の生態茶園にはたくさんの茶樹が植えられている。茶山の頂に立ち、四方を見渡すと、黄色と緑色が入り混じった段々畑が絵画のように広がっている。遠くから時折、茶摘みをする女性たちの歌声が聞こえてくる。スマートフォンを持ち、ライブ配信をしながら地元の茶を他地域の人々に紹介している若者を見掛けることもある。 

セレン含有量が豊富な土壌は、大地から人々に与えられた贈り物だ。石台県内には8万7000ムー(1ムーは約0067)の茶畑が広がっている。ここの茶葉はセレン含有量が1当たり048㍉㌘に達しているため、「富茶」と呼ばれている。「富茶」は免疫力向上や脂質降下補助などの効果で広く知られ、地域の生活を支える産業となった。さらに、同様にセレン含有量が豊富な「米」と「水」も「茶」と共に石台県の「三宝」となっている。 

これら「大地からの贈り物」に加えて、池州内にある大小さまざまな水域も、ここで生活する人々に豊かな恵みをもたらしている。東至県北部の升金湖は、湖で1日に捕れる魚の価値が1升(「升」は古代の計量器)の金に相当することから名付けられた。広大な湖面の下には66種類の魚が生息しており、毎年10万羽を超えるコウノトリやナベヅルなどの希少な渡り鳥がここで越冬繁殖している。また、貴池区の斉山平天湖観光エリアの湿地公園は、鳥類、哺乳類、魚類、爬虫類など各種動物の楽園となっている。 

「一池山水」は池州の土地を育みながら、この町に独特な文化の宝も残した。


毎年冬になると、安徽省唯一の国際重要湿地である升金湖は越冬する希少な渡り鳥を大量に迎える(写真汪歓喜

 

山水に歴史上の人物の足跡 

斉山平天湖観光エリアは、山、川、湿地が一体となった地形で、古来多くの名士や文人を魅了してきた。エリア内の斉山は典型的なカルスト地形で、山の上には数多くの奇石があり、天然の盆栽のようだ。山道を散策すると、各時代の文人が残した摩崖石刻を鑑賞することができる。北宋の名臣包拯は池州の知州(州知事)として赴任した際、友人と共に斉山を訪れ、山の崖壁に「斉山」という書を残した。その「斉」の字の形は京劇の隈取りの模様のようで、とても個性的だ。また、南宋の名将岳飛は長江を渡って金と抗戦するため、大軍を斉山に駐屯させ、平天湖で水軍の訓練を行った。 

平天湖の西側にある秋浦河は、古くから「詩の河」と呼ばれている。この美称の由来は唐代の詩人李白と深い関わりがある。李白は749~761年に池州を訪れ、その間に九華山に3回登り、秋浦河を5回訪れ、数多くの詩を創作した。中でも『秋浦歌十七首』は後世の人々に広く知られている。名句といわれる「水如一匹練 此地即平天(ここの水は白絹のように穏やかで、天に平らかに連なっている)」はここで生まれ、平天湖の名前の由来にもなった。 

秋浦河は牛降に源を発し、北に向かって市内を流れ、最終的に長江に合流する。唐代の詩人杜牧の詩に登場した「杏花村」は、秋浦河のほとりにあり、平天湖、池州古城と向かい合っている。844年、杜牧は池州の刺史として赴任し、ここで2年間を過ごした。政務の合間に、彼は池州の各地を歩き回り、山水に対する感情を込めた美しい詩を多く残した。『清明』という詩もこの時期に創作されたものだ。現在杏花村にある牧之楼は、池州で過ごした杜牧を記念して建てられた。貴池区に位置する茅坦村には、杜牧の子孫が今も住んでいると言われる。 

このほか杏花村には文選楼という建物もあるが、これは南朝の梁(502~557年)の昭明太子蕭統をたたえている。歴史上、池州はかつて昭明太子の領地だった。伝説によれば、太子は領地を視察した際、秋浦河の魚を食べて、「水が良く、魚がおいしい」と賞賛し、魚の産地に「貴池」と命名した。これが現在の貴池区の名称の由来である。昭明太子は中国で現存する最も古い詩文集である『文選』を編さんし、隋や唐、宋などの時代の科挙制度や後世の政治文化に深い影響を与えた。彼は池州にいた間、民衆の苦しみに関心を寄せ、地元の人々から深く尊敬されていた。唐代に杏花村の山には、昭明太子を記念するための太子廟が建てられ、現在の秋浦河のほとりにも昭明太子が釣りをしたという場所が残っている。池州で毎年行われる多くの「儺」の行事も、昭明太子を祭っている。 


薄霧に包まれた茶畑で石台の富茶を摘む女性たち(写真方紅兵)

 

口伝されてきた古い節回し 

「儺」なしに村は成らない 

「儺」は中国の古い祭りの儀式である。発音は日本の「能」に似ており、表現形式にもいくつか類似点がある。儺戯(儺の芝居)の演者は通常、木製の仮面をかぶり、伝説上の疫病を追い払う神「儺神」を演じる。戯曲や舞踊などを通じて、神々を楽しませ、先祖を祭り、邪気を払い、福を迎える。 

3月になると、杏花村では1000ムーもの杏花が咲き誇る。儺戯の列が「龍亭」(儺神の仮面を載せたみこし)を担いで、杏花村に入ってくる。彼らは手に旗を持ち、「五色の傘」を振りながら、池州独自の儺文化を観光客に披露する。 

正式な儺の行事は通常、毎年旧暦正月の7~15日の間に行われ、神を迎える、神を受け入れる、神を送るなどの多くの儀式が含まれる。夜になると、村の祠堂が明かりで照らされ、儺戯の演者たちは仮面をつけ、太鼓とどらの音に合わせて、『孟姜女』『劉文龍』などの儺戯の古典演目を明け方まで演じ続ける。 

貴池区梅街鎮の劉街社区(コミュニティー)党委員会の許磊副書記(32)はほぼ毎年このような行事に参加している。幼い頃から家族の年長者の影響を受けて、許さんはこの古い民間芸術に強い興味を抱き、自ら進んで梅街儺文化展示館の解説員になった。 

「池州全体で約20の儺戯団体がありますが、そのうち梅街だけでも13団体あります」と池州の儺戯について詳しく紹介してくれる許さん。「貴池では『儺なしに村は成らない』ということわざがあります。ここではほとんどの村で儺戯が行われており、私たちの世代はみんな儺戯を聞きながら育ちました」 

儺戯は各宗族を単位として、口伝の方法で代々伝えられてきたため、近隣の村であっても、スタイルが異なることがある。また、池州の儺戯には、地元の戯曲青陽腔に似ているオクターブの高い節回しが含まれており、学習の難易度が高い。さらに、娯楽の多様化に伴い、儺戯の伝承も次第に「後継者不足」の問題に直面している。 

「先代の人々が懸命に伝承してきた儺戯を、私たちの世代で絶えさせてはいけない」と許さんは決心。これまで彼は池州の儺文化の伝承と保護に尽力してきた。儺文化展示館の建設に参加するだけでなく、各町村を訪れ、散逸している民間の儺戯の台本を収集してきた。許さんのような若者が儺文化の伝承に参加できるようにするため、地元政府は昨年、儺芸術育成所を設立した。一部の中学校高校では儺戯の伝承に関する授業も行われており、この古い無形文化財に新たなエネルギーを供給し続けている。 

「戯曲の生きた化石」復活へ 

500年以上前、江西省の弋陽腔が池州府の青陽県周辺に流入し、現地の方言、民間劇曲、民謡などと結び付き、独自の戯曲芸術である「青陽腔」が形成された。青陽腔は黄梅戯の発展に貢献し、徽劇の成長にも影響を与え、清代に徽劇の劇団が上京して京劇が生み出されたことの重要な基礎となる役割を果たした。そのため青陽腔は、「戯曲の生きた化石」として評価されている。 

現在、青陽県には青陽腔博物館が建てられている。博物館の中から時折、戯曲の歌声が聞こえてくる。初めは高らかに響き、よく聴くと滑らかで抑揚がある。それは青陽腔の伝承者江進さん(78)が弟子たちに青陽腔の節回しを指導している歌声だ。 

他の戯曲と違って、青陽腔は伴奏に管弦をいっさい使わず、太鼓とどらだけで演奏をする。また、変化に富んだ節回し、分かりやすい言葉遣い、強いストーリー性が、この戯曲の節回しの多様性と表現力に大きく貢献している。 

江さんは15歳のときに青陽県の黄梅戯劇団に入り、戯曲の舞台に立った。彼女の人生はそれから青陽腔と深い縁を結ぶこととなった。 

1980年代、改革の波と大衆の精神的なニーズがますます高まるのに伴い、伝統的な戯曲の演目や表現形式は次第に衰退し、民間に散在する青陽腔の劇団や役者も大幅に減少した。青陽腔は一時期、後継ぎのいない状況に陥り、青陽腔の地元でも伝承が途絶える危機に直面した。 

この古い演劇形式を救うため、江さんは輝かしい黄梅戯のキャリアを捨て、青陽腔の発掘チームを率いて山中を進み、民間を訪ね、地方に足を運び、60万文字以上の資料を収集整理した。彼女は役者たちを率いて日夜、青陽腔の節回しに磨きをかけ、この古い「戯曲の生きた化石」を地元の舞台で復興することに成功した。 

今日、80歳近い江さんはなおも青陽腔の教育に携わっており、若手役者の育成に加えて、地元で開催される「学校で青陽腔を学ぶ」イベントに積極的に携わり、小中学校の児童生徒たちに授業を行っている。「私たちは青陽腔の教科書も作成しました。このような形で青陽腔の影響力を広めて、より多くの若者が青陽腔を知り、それに親しみ、愛するようになってほしいと願っています」 

先代と今の世代の人々が次々とバトンをつないだことにより、古い節回しは再び池州の山水の間に響きわたった。この伝統の保護と継承にまつわる物語は、千年も歌われてきた詩のように、これからも秋浦河のほとりに伝わっていく。

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