杭州(下) シルクまとい名茶を味わう 若者の夢が始まる江南の町

2023-11-03 17:34:00

袁舒=文

vcg=写真

李昀=イラスト

杭州は水系が交わり、山々が連なる長江デルタ地帯にあり、独特な地理環境により、ここでは製茶技術や絹織物技術などの悠久の歴史を持つ伝統手工芸が誕生した。これら古い伝統技術は無形文化遺産とされ、雨の煙る江南に一抹の情趣を添えるとともに、現地の人々の手で代々受け継がれている。だが、杭州には古い伝承だけでなく、全国でも指折りのインターネット起業拠点がある。「夢想小鎮」に入ると、古風で典雅な江南建築とシンプルで近未来的な現代建築が引き立て合っている。ここには夢に胸を膨らませた若者が集まり、彼らの科学技術の夢を現実に変えようとしている。 

世界的に知られる茶と絹

杭州は中国のシルクの都で、6000年以上のシルク生産加工の歴史があり、世界で最も早くシルクを生産輸出した地域の一つだ。杭州のシルク工業は品質等級の高さで知られ、製品は遠く海外まで販売され、高く評価されている。また、杭州で生産される西湖龍井も非常に優れた中国緑茶だ。毎年、国内外の茶の愛好者が遠方からわざわざ杭州を訪れ、そのすっきりと甘い茶の香りに酔いしれている。 

龍井茶で客をもてなす 

中国十大名茶の一つである西湖龍井は、杭州市の西湖龍井村周辺の山々で産出するため、この名がつけられた。西湖龍井茶の歴史は長く、唐代までさかのぼることができる。有名な茶聖陸羽は世界初の茶葉専門書『茶経』において、杭州の天竺と霊隠の二寺での茶葉生産の状況に言及した。西湖龍井の名前は宋代に始まり、元代に人々に知られ、明代に広く伝わり、清代にピークを迎えた。この1000年余りの歴史の流れの中で、西湖龍井は無名から有名へ、徐々に庶民の食後の飲み物から皇帝や将軍への献上品へ、中国人にとっての名茶から世界に名をはせる銘品へと変化した。 

早くも北宋時代には、龍井茶区は基本的な規模が出来上がり、当時、霊隠寺の「香林茶」、白雲峰の「白雲茶」、宝雲山の「宝雲茶」がすでに献上品になっていた。北宋の高僧辯才法師はここに隠居し、獅峰山の麓にある寿聖寺の龍井茶でよく来客をもてなし、また、蘇東坡ら文豪と共にここでよく名茶を味わい詩を詠んだ。蘇東坡は「白雲峰下両槍新膩緑長鮮穀雨春(白雲峰の麓の茶葉は新芽が出たばかりで新鮮茶葉は春の穀雨前後が最もおいしい)」という詩句で龍井茶を褒めたたえ、彼が書いた「老龍井」の扁額は、今でも寿聖寺の十八御茶園の岩壁に残されている。 

高級な緑茶は生えたばかりの柔らかい新芽で作られる。通常、清明あるいは穀雨の前に摘む必要があり、出来上がった茶は俗に「明前」あるいは「雨前」と呼ばれ、女児紅という美称もある。このようなロマンに満ちた比喩からは、人々が龍井茶をどれほど好み、夢中になっているかが見て取れる。 

「径山茶宴」は杭州市余杭区に伝わる民俗行事で、国家級無形文化遺産の一つでもある。酒の代わりに茶で客人をもてなす径山の古寺の独特な喫茶儀式で、余杭区径山鎮にある径山万寿禅寺で唐代に誕生し、宋代に隆盛し、現在まで伝わってきた。茶宴には、茶榜(茶宴に関する情報を記した赤い紙)を貼り出す、茶鼓をたたく、主賓が入場する、仏像に線香を供える、湯を沸かし茶をたてる、茶杯に茶を分ける、経を唱え茶を飲む、感謝し退席するなど、10以上の過程がある。茶をもって禅の修行をして真理を求めることは、径山茶宴の神髄と核心であり、中国禅茶文化の代表的な様式といえる。 

径山茶宴は宋代に仏教と共に日本に伝わり、その後、徐々に日本の茶道へと発展した。径山茶宴は日中文化交流の重要な担い手となったのである。 

深い蓄積を持つシルクの都 

軽くて柔らかく、色彩鮮やかな杭州シルクは、杭州市の特産品であり、このため杭州市は「シルクの都」とも呼ばれている。4700年前の良渚遺跡で出土した絹織物は杭州シルクの歴史の長さを示し、また、唐代の詩人白居易の「紅袖織綾誇柿蔕青旗沽酒趁梨花(赤い袖の服を着た少女は杭州特産の『柿蒂』という織物を自慢し、酒屋では人々が梨の花の時期に熟成する『梨花』という酒を買っている)」という詩句は当時の杭州シルクのレベルの高さを語り、さらに、昔の清河坊に軒を連ねた絹織物店はシルク経済の繁栄を証明していた。 

杭州は肥沃な杭嘉湖平原にあり、同地の気候条件や土壌環境は桑の木の成長と蚕の繁殖に適している。伝説によると、黄帝の時代、元妃が「人々に養蚕を教え、絹糸で服を作った」。こうして、野蚕を飼い慣らして家蚕とし、蚕の糸を取って、衣服を作るための絹織物とすることが始まった。古い耕織図(耕作と養蚕の様子を描いた絵)には、古代の養蚕農家が育蚕、養蚕、糸繰り、製織を行う全過程が詳しく記録されている。五代十国時代から杭州の絹織物製造の規模は拡大し、呉越国王銭繆は杭州に官営のシルク工場「織室」を設置した。明清時代になると、「杭州織造局」は三大官営製織機構の一つとなり、その製品は宮廷でのみ使用された。 

養蚕の過程は現地の商業経済の発展を表すだけでなく、同地の人々の世界観にもしっかりと溶け込んだ。蚕の一生は、人間の生、死、生まれ変わりを象徴すると見なされた。村の池にまかれた蚕のふんは魚の餌となり、池に蓄積した泥は桑の木の肥料となり、桑の葉は蚕の生命の源となった。毎年4月、蚕花節の一環として、養蚕農家の女性はシルクあるいは紙で作った色とりどりの花で自分を飾り、豊富な供物をささげる。シルクはさまざまな形で中国の庶民に影響し、シルクの服、扇子、寝具などが人々の日常生活を彩っている。 

2009年、中国の養蚕絹織物の職人技術は「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に登録された。その中で、杭羅の編み製造の技術がサブ項目として挙げられた。 

杭羅、蘇緞、雲錦は中国華東地域の三大シルク名産品だ。杭羅は杭州原産で、上質な絹糸を使い、平紋と沙羅という織り方を組み合わせて作られ、その表面には縦方向あるいは横方向のはっきりとした等間隔の織り目があり、生地の手触りは滑らかで柔らかい。この生地は着ると涼しく快適で、着崩れしにくく、洗濯しても傷みにくいため、カーテンや夏用のシャツ、普段着の生地として使われることが多い。 

杭羅の歴史は長く、早くも宋代の地方誌に記載があり、清代には杭州シルクの有名な品目になっていた。杭羅を生産するための織機は何度も改良されたが、その生産過程にはなお多くの精密な手作業が残されており、生産者は極めて高い技能を要求される。技術が複雑なため、杭羅を継承する人は昔から多くはない。20世紀以降、化学繊維が広く普及したせいで、伝統的なシルクの生産は難しくなった。現在、杭羅を生産しているのは福興絹織物工場だけで、杭羅の継承者一族出身の工場長がこの生産技術を継承している。同工場の杭羅は昔から北京の「瑞祥」や蘇州の「乾泰祥」などの老舗で販売されており、国内外の消費者から広く人気を得ている。 

若者の夢を育むゆりかご 

杭州は中国の経済発展の最も成功した都市の一つだ。沿海の地理的優位性、しっかりとした経済的基礎、若者を引き付ける力によって、アリババグループ本部がある杭州市はインターネット分野で唯一無二の発展を遂げた。ここには多くのインフルエンサーが集まり、若い新鮮な血液が常に新たな活力を都市に注いでいる。ここは中国で最もイノベーション力と活力のある都市の一つであり、濃厚な科学技術の雰囲気と起業文化があり、現在、夢を抱いた若者たちが次々と杭州の包容力のある広い胸に飛び込んでいる。 

中国の「インターネットの都」 

杭州には中国のインターネットの都というニックネームがある。杭州は中国最大のEC企業アリババグループの創業地で、デジタル産業の寄与する生産額が市全体の域内総生産(GRP)の半分を占めている。アリババの台頭が杭州全体の「クラウド」の一面を開いたことにより、ライブコマースは杭州のトップ業界となった。公式データによると、現在、杭州のライブ配信関連企業はすでに5000社を超えているという。杭州は、インターネットソフトウエア、インターネット情報サービス、ECなどの分野で比較的完備した産業チェーンを持ち、インターネット企業の各段階をカバーしている。政府は、優遇税制、人材誘致、イノベーション起業など、インターネット企業の発展を支援する政策を多数打ち出している。全国335都市に対する「インターネット+(プラス)」社会サービス指数評価によると、杭州は全国でも「インターネット+」のレベルが最高で、生活が最もスマートな都市になっている。 

2016年に主要20カ国地域首脳会議(G20サミット)を開催した後、この都市は中国全土ひいては世界から注目され、近年の人材吸引力は多くの新一線都市を圧倒し、北京上海広州深圳に次ぐものとなっている。これだけでなく、杭州はさらに「最も幸福感がある都市」とも評価されている。この数年、多くのSNSで杭州は常に話題となり、新生活に憧れる新卒生や、一線都市から離れたい自由な魂を持つ人、起業して自分の未来をつかみ取りたい熱血青年にとって、見栄えが良く、蓄積が厚く、生活が便利で、無限の発展の可能性のある杭州は、よく彼らの最良の選択肢となっている。 

夢が現実となる場所 

杭州市余杭区には、小川に石橋が架かり、白い壁と黒い瓦が連なる典型的な江南の古鎮がある。清末民初の革命家思想家である章太炎(1869~1936年)の故居や、新中国の初代食糧事業従事者が建てた「四無糧倉」などがここにあり、歴史の蓄積が厚い場所となっている。だが、これら古風な家屋に入居しているのは現地の住民ではなく、インターネットスタートアップ企業である。2014年に造られた起業パーク拠点「夢想小鎮」は、「夢があり、情熱があり、知識があり、創意がある」が、「資本がなく、経験がなく、市場がなく、支援がない」大学生が「無から有を生み出す」のを助け、彼らの起業の夢をしっかりとした財産に変えている。 

この面積約3平方のパークでは、江南様式の古風な建築と現代建築が調和を保って融合している。この余杭塘河(京杭大運河の支流の一つ)のほとりの古い通りには800年以上の歴史があり、エリア内には多くの文物保護単位があり、多数の古建築が保存されている。古来、大運河の両岸は商人が集まる場所で、このような人的文化風景も建築と共によく保存され、そこに身を置くと穏やかな心地よさを感じられるものだ。だが、現在同地の産業は非常に現代的なインターネット産業であるため、ここを歩くと、「浮世を離れたり、実社会に出たり、自由に逍遥する」ような素晴らしい感覚がある。川辺のカフェのテラスでは、若い起業家が投資家に対して自分の構想を熱く語っている光景がいつも見られる。 

1990年代後半生まれの起業青年の林さんは今年、夢想小鎮に入居したばかりだ。もともと北京で生活していたが、杭州の起業の雰囲気と生活の息吹に引かれて、インターネット関連の仕事を辞めた後、仲間と共に起業することを決め、結婚して1年になる妻を連れて杭州に引っ越した。 

「私たちの事業は始まったばかりで、未来にはまだ多くの不確実性がありますが、私と妻はついに最も快適なライフスタイルを見つけたと感じています。この都市は寛容で、私たちは自分の青春を杭州にささげ、ここからより多くのプラスのエネルギーを得たいと願っています」。秋が来て、林さん夫妻はシェアサイクルに乗って西湖を訪れ、風に吹かれながら未来についての想像を語り合った。彼らはここで共にロマンと理想を追い求め、着実に自分たちの幸福を手にしようとしている。 

夢想小鎮の夜景(vcg)

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