悠久の都に庭園きらめく古今をつなぐ修復の妙技
北京の地勢は北西が高く、南東が低い。西には太行山脈北端の西山、北には燕山山脈の一部がそびえる。「三山五園」は、この西山の麓から平原にかけての地域に位置している。山にしみ込んだ水がここで流れ集まり、大小の湖をつくり出した。この地が「海淀区」と呼ばれるのは、まさにそのためだ。歴史的に、遼・金・元・明・清の各王朝はいずれも北京を首都または副都とした。そしてこの地の山水の清らかさや涼しい気候に注目し、行宮や寺院、園林をたびたび築いた。最終的に、清代においては皇家園林を中心に、下賜園や私園が点在し、山林と水田に抱かれ、水路と街巷が連なる壮大な景観が形づくられたのである。
三山五園の構成と風格
「三山五園」とは、北京市中心の北西部における清代皇家園林を代表とする歴代の文化遺産を総称する呼び名だ。三山とは香山・玉泉山・万寿山、五園とは静宜園・静明園・頤和園・円明園・暢春園を指す。
北京市海淀区文化発展促進センター副主任の于佩麗さんによれば、現在、三山五園地域の全体保護計画の範囲は68・5平方㌔に及び、清代皇家園林を代表とする歴代の文化遺産、山水景観の全体的な構成、さらには人と自然が調和する空間秩序を含んでいるとのことである。
皇家の至宝の数奇な運命
三山五園といえば、人々に最もなじみ深いのは、1998年にユネスコ(国連教育科学文化機関)の「世界遺産リスト」に登録された頤和園だ。
「人の手によるも、あたかも自然そのもののように」という造園の理念に基づき、頤和園は山水を主体とし、設計は巧みで、構成は精緻かつ独特である。江南庭園の優美さと北方庭園の雄大さ、多民族建築様式を融合させ、皇家園林の壮麗さを示すと同時に、自然の趣(1)にも満ちている。
東宮門から頤和園に入ると、まず目に飛び込んでくるのは仁寿殿だ。殿の前には銅製の龍・鳳凰・麒麟の3体が鎮座し、この園林の変遷を静かに見守ってきた。

さらに進むと、眼前に広がるのは昆明湖である。湖畔に立てば、微風が頬をなで、湖面には光がきらめく。湖上を小舟がゆったりと行き交い、水面にはまるで動く水墨画のような光景が描かれる。
湖面には長橋が架かり、湖中の南湖島と東岸の廓如亭を結んでいる。これが頤和園名物の十七孔橋である。橋の欄干には百本を超える石柱が立ち、それぞれに表情豊かな小さな獅子が彫刻されている。牙をむいて威嚇するものもあれば、愛嬌たっぷりの姿(2)を見せるものもある。
右手を仰げば、万寿山の上に八角形で重層の屋根を持つ佛香閣がそびえ、周囲の樹林と響き合い、その荘厳さと神秘さをいっそう際立たせている。佛香閣の前に立ち下を見下ろせば、頤和園の大半の景観を一望できる。
湖北岸を沿うように歩けば、ギネス記録を持つ「世界最長の画廊」――頤和園長廊がある。長廊西口を出て石舫(石造りの船)を経て、北へ折れて蘇州街の買い物通りや後湖と諧趣園へ向かうもよし、あるいは界湖橋を渡って西堤へ向かってもよい。特に乾隆帝が西湖の蘇堤を模して築かせた西堤は、北西から南東へと約2600㍍にわたり、六つの橋でつながっている。春になれば柳は青々と、桃は紅に染まり、花見や散策に格好の場所となる。
頤和園は現存する皇家園林の中で最も完全に保存されているが、その南西にある暢春園と円明園はそれほど「幸運」ではなかった。第2次アヘン戦争(1856年10月~60年10月)の際、英仏連合軍は北京を占領し、園林を焼き払い、内部の財宝を略奪した。その結果、暢春園と円明園は甚大な被害を受け、とりわけ暢春園は徹底的に破壊され、今日に至るまで恩佑寺と恩慕寺の二つの石造山門しか残されていない。
山水の間に残る園林の記憶
毎年10月になると、香山の山々は赤と黄に色づき、紅葉を追い求める人々でにぎわう。
香山の歴史は遼代(916~1125年)にまでさかのぼり、当時は皇室専用の狩猟地として利用されていた。金の大定26(1186)年3月、香山寺の最初の形が完成し、金世宗が「大永安寺」と命名した。康熙16(1677)年、香山寺付近に行宮の建設が始まり、乾隆10(1745)年には香山に静宜園が築かれ、二十八景が整えられた。
東門の内側にある勤政殿は、その二十八景の筆頭であり、乾隆帝が政務を執った場所。そこから山道を北へ登れば、約20分で香山寺に至る。この古寺は清代の最盛期には3万平方㍍を超える規模を誇ったが、英仏連合軍と8カ国連合軍(注:1900年に英・米・独・仏・ロ・日・伊・オーストリア=ハンガリー帝国によって結成された軍隊が中国侵略を行った)により破壊され、2017年に再建・公開された。秋になると、古寺と紅葉が織りなす景観(3)は撮影や観光に最適である。

さらに登ると栖月崖に至る。ここは高所にあり、香山観光エリア全体を見渡せる。山々が紅に染まる景色は壮観だ。小休止の後、香炉峰へと進めば、一歩ごとに景色が変わり、異なる角度から香山の風光を楽しむことができる。
香炉峰は香山の最高点だ。天候がよければ、峰の上から南東を望み、堂々とした八角七層の塔を遠望できる。これが玉泉山静明園の主峰に立つ玉峰塔であり、北京で最も高所にある塔である。
英仏連合軍と8カ国連合軍の焼き討ちと略奪により、玉泉山静明園は一時廃園と化した。新中国成立後、大規模な修繕と緑化保護が施されたが、一般公開はされていない。香山山頂から遠望するほか、頤和園の昆明湖からも玉峰塔を望むことができる。これは中国園林の「借景造園」という空間美学を絶妙に体現している。
伝統技術とテクノロジーで守る
匠の心が生んだ結晶
頤和園仁寿殿の内部には、高さ約4㍍の紅木の大きな棚が二つ並び、古雅な造形と精緻な彫刻を誇り、温かな光沢を放っている。これは頤和園管理処の所蔵品管理センター家具修復班の班長、王新傑さん(57)が班員と共に、半年以上をかけて修復した逸品だ。
王新傑さんは頤和園で明・清時代の家具の修復と保護に35年間従事してきた。頤和園の一日の仕事は朝8時に始まるが、彼は長年の習慣として7時には職場に到着し、一日の準備を始める。
乾燥した北方の気候では、木製家具はひび割れや変形を起こしやすく、光沢を失ってしまう。そのため、ろう引きによる保養は王新傑さんの日常業務の重要な一つだ。
「北方はろうをかけ、南方は油を塗る。塗装のようなもので、ろうや油が木の表面の木目や気孔を埋め、薄い膜を作って保護するのです」と彼は淡々と語る。しかし実際のろう引きは10にも及ぶ工程を経る大変な作業だ。
彼は左手に猪毛のはけを持ち、右手にはドライヤーに似た熱風機を持つ。熱風によって、家具の表面に置いた固形のろうがすぐに溶けて液体となる。彼は熱風機でろうを溶かしつつ、はけで均一に塗り広げる。仕上がりを美しくするためには火加減が要であり、ろうの溶ける速度に応じて熱風機を適宜移動させ、家具を傷めないよう適切な距離を保たねばならない。
20年前、王新傑さんと師匠たちがろう引きをしていた頃には、熱風機はなかった。彼らは約4㌔の耐火れんが電炉を抱え、家具の上でつるしながら動かさねばならず、すぐに腕が痛んで上がらなくなったという。「当時は冷房もなく、夏場の作業場は蒸し風呂のようで、汗が滝のように流れ、服もすぐにびしょ濡れになりました」と彼は振り返る。
家具の彫刻や透かし彫り部分のろう引きはさらに難しい。まず猪毛のはけで細部にたまったほこりや油汚れを取り除き、凹凸のある部分にろうを適切に行き渡らせつつ、表面を傷めないように仕上げなければならない。これらの高度な技術を要する作業について、王新傑さんは「家具が油のようにつややかに輝くのを見ると、大きな達成感を覚えます」と語る。
「文化財修復の要は、その本来の姿を保ち、時代的特徴を残すことです。商業的修復とは本質的に異なるのです」と王新傑さんは強調する。
最先端システムによる保護
海淀(中関村科学城)都市大脳インテリジェント運営指揮センターに入ると、大型電子スクリーンに表示された328カ所の重点文化財情報が一目で把握できる。これが「文化財大脳」と呼ばれる不可移動文化財インテリジェント保護システムである。
三山五園が位置する海淀区は北京の科学技術イノベーションの中核地区であり、強力な技術基盤が文化財保護を力強く支えている。「都市大脳」のデータ分析やスマート化設備を活用し、海淀区はこの保護システムを構築した。三山五園のうち、特に価値が高く基盤が脆弱でリスクの大きい文化財周辺には、インテリジェントセンサー端末が設置され、警戒範囲への侵入や異常発生時には自動的に警報が鳴る。これにより、文化財保護管理は「全過程・全天候」で実現されている。
「俯瞰すれば全体を見渡し、近づけば細部を確認できます。このシステムは私たちの文化財保護に大きな利便をもたらしています」と海淀区の文化財保護担当者は語る。
文化遺産保護の成果を享受
三山五園の保護と伝承は、単に歴史の文脈を守ることにとどまらず、文化遺産を現代生活に取り入れ、歴史と現実を交わらせ、人と自然が共生することを目指しているのである。
地下に「隠された」文化芸術施設
三山五園文化芸術センターに足を踏み入れると、まず目に入るのは連なった園林建築群の原木色のカーテンウォールであり、その上には灰色の懸山頂の屋根が起伏を描いている。

昨年、この三山五園文化芸術センターは暢春園西花園旧址の上に正式に完成した。総建築面積は2万1000平方㍍に及ぶが、そのうち約1万9000平方㍍は巧みに地下に「隠され」、周囲の環境と最大限調和し、三山五園の全体的な歴史景観を損なわないように設計されている。
地上部分は多くが1階建てで、一部が2階建て。地下は3層にわたる。地下1階には臨時展・特別展の二つの展示室と社会教育活動スペースがある。地下2階には三つの展示室があり、常設の歴史文化展とデジタル没入展示を通じて、三山五園地域の歴史的風貌と文化的内容を体系的かつ包括的に紹介している。地下3階は三山五園に関する文献資料の研究・解読や関連文化財の修復・保護を担う機能を有している。
計画によれば、三山五園文化芸術センターは、頤和園博物館、円明園博物館、そして多数の大学博物館と共に三山五園博物館群を形成し、文化財保護と活用の成果をより多くの市民や観光客に還元していくこととなっている。
歴史ある河川の新たな姿
清河は、三山五園地域における重要な歴史文化河川だ。そのうち、樹村閘から北京体育大学西橋に至る1・17㌔の区間沿岸には、「清河の洲」という詩的な名が付けられている。
2020年、「清河の洲」を起点として、海淀区は清河両岸の総合整備・景観向上事業を開始し、三山五園の歴史文化要素を景観設計に取り入れた。
初秋の夕暮れ、「清河の洲」を訪れると、両岸の密生した葦が風に揺れ、川面では野鴨が遊泳している。あるものは水に潜って餌を探し、尾を天に向けて揺らし、あるものは追い掛け合って水面にさざ波を残す。曲がりくねった河岸には高木や低木が点在し、あずまやが散りばめられている。散歩する人、ジョギングする人、リクライニングチェアで空を仰ぐ人、あるいは大きな望遠レンズを抱えて夕陽を待つ人の姿もある。
歩みを緩めてよく観察すれば、この大きくはない公園に数々の工夫が施されていることに気付く。冷たく硬い灰色のコンクリート製の閘門舎には、段差のある伝統的な斜めの屋根と水紋格子を組み合わせ、野趣を添えている。道路の雨水口は巧みに展望デッキの下に隠され、デッキ上からは小舟や雲影を眺められ、とても風情がある。円明園匯芳書院の眉月軒をモチーフとした二つの建築は、一つは弓なりに湾曲して月のような「月軒」、もう一つは二つに分かれた「眉軒」だ。園内には3000平方㍍が稲作地として確保され、清朝皇帝が自ら選んで栽培した「御稲米」の流れをくむ「京西稲」が植えられ、田畑と小さなあずまやが入り混じり、農村の記憶を呼び覚ます。かつては悪臭を放つ汚水溝と忌避されたこの川が、今や名実共に「清らかな河」となり、「清河の洲」は住民の憩いと娯楽の場となった。
伝統と現代、歴史と未来、文化と自然――三山五園は新たな時代の絵巻を絶えず広げつつある。