戦国時代とギリシャ(1) 東西文明の起源と相違

2020-08-17 14:51:56

潘岳=文

 

潘岳 中央社会主義学院党グループ書記 

1960年4月、江蘇省南京生まれ。歴史学博士。中央社会主義学院党グループ書記、第1副院長(大臣クラス)。中国共産党第17、19回全国代表大会代表、中国共産党第19期中央委員会候補委員。

 

 近年、反グローバル化や狭量な民族主義、孤立主義思想の影響の下、過去100年になかった変化が世界情勢に現れている。新型コロナウイルス感染症の世界的なまん延により、この変化の複雑さと深刻さはいっそう増した。行き詰まりと手の付けられない状況に直面し、人類は独善的な行動を取るべきなのか、それとも運命共同体を結成するべきなのか。これはすでに人類社会の発展の前途に影響する深刻な命題になっている。

 これについて、潘岳・中央社会主義学院党グループ書記は論考『戦国時代とギリシャ』を執筆し、大量の史実に基づいて東西文明の起源と発展をさかのぼり、両者の根本的な相違を分析し、双方が障害を乗り越えて互いに理解する可能性を模索した。この論考は人類社会が文明の高みから相互融合と相互参考を実現し、調和と共生に向かうために際立った観点を示している。

 本誌は今月号から4回にわたり、『戦国時代とギリシャ』のハイライトを連載形式で読者にお届けする。

 

古代ギリシャの神殿建築などの遺跡は、西洋社会の精神的なふるさとだ(写真提供・潘岳)

 

似通った歴史的状況で異なる結果

 今日、東洋と西洋は再び相互理解の岐路に立っている。

 現代文明の中には古代文明の精神的な遺伝子が含まれている。欧米と古代ギリシャ・ローマ文明、イスラム世界とアラブ文明、イランとペルシャ文明、ロシアと東方正教会文明、イスラエルとユダヤ文明、東アジア国家と中華文明のように、さまざまな関係がさまざまな遺伝子をつなぎ合わせ、さまざまな道に変化してきた。

 現代の欧米文明は自分たちの政治秩序について、古代ギリシャ・ローマ文明、キリスト教文明、工業文明のエッセンスを一体化させたものだと考えている。このうち最大の源は古代ギリシャ文明だ。一方、中日韓を代表とする東アジア文明は中華文明の遺産の上に打ち立てられている。中華文明の強固な形態は秦・漢で確立し、変化の鍵は戦国時代にあった。

 紀元前5~前3世紀、中国の戦国時代と古代ギリシャは似通った歴史的状況に直面していた。共に内部で甚だしい戦乱に陥り、戦乱の中で統一の動きが現れた。また、統一運動の積極的な勢力は共に中心的国家ではなく、軍事的に強大な周辺国だった。多くの知識人が統一運動のために奔走し、大量の哲学、政治、道徳の命題を提起した。

 しかし、統一運動の結果は異なっていた。ギリシャではアレクサンドロス大王の帝国が成立し、わずか7年で分裂した。その後、3大後継者が王国内で100年間争い、一つずつローマにのみ込まれた。一方、中国の戦国時代は「大一統(全国の統一)」の秦王朝を形成した。14年後に崩壊したが、すぐにまた大一統の漢王朝が興った。秦漢の制度は歴代王朝に受け継がれ、2000年余り続いた。

 似通った歴史的条件の下で異なる結果が現れたのは、文明の本質的な性質が異なっていたからだ。

 

「天下」全体にこだわる中国

 湖北省雲夢県で1975年12月、秦代の法律を記した竹簡群「睡虎地秦簡」が出土した。法家の竹簡の山からは意外にも儒家精神のあふれた官吏養成教材「為吏之道」が見つかった。「寛俗にして忠信、悔過して重ぬることなく、和平にして怨みなく、下を慈りて陵すことなかれ。上を敬して犯すことなく、諌を聴きて塞ぐことなかれ」。これは決して特別な例ではない。王家台秦簡、岳麓書院蔵秦簡、北京大学蔵秦簡にも似通った文言があり、秦朝後期にはもう完全に儒家を排斥していなかったことを示している。

 秦国だけでなく、ほかの六国も同様だった。秦国に限られていたと一般的に考えられている法家制度と丁寧な農業は、実際には魏国の発明だった。自由でまとまりがなかったと一般的に考えられている楚国は、秦国より早く「県制度」を実行していた。商業が発達していたと一般的に考えられている斉国は、その宰相・管仲の著書と伝えられる『管子』の中に秦と似通った「保甲(行政の末端組織)の連座」の要素も含んでいた。

 儒家と法家を織り交ぜ、刑罰と徳化を共に用いることが戦国時代末期の全体的な潮流だったことが分かる。各国の政治観念の基準線は「一つの天下」だった。誰も小さな地域を分けて統治することに甘んじず、完全な天下を奪取しようとした。統一が必要なのかどうかを争ったのではなく、誰が統一するかを争った。「天下」全体に対する執着は、中国の歴代政治家集団の最も独特な部分だ。

 思想家たちもそうだった。人々は百家争鳴の「争」だけを重視し、往々にしてその「融」を軽視する。数十年にわたって次々と出土してきた戦国時代の竹簡と帛書(絹に書かれた文書)は、「諸家雑糅(入り交じる)」だった史実を証明している。郭店楚墓竹簡からは儒家と道家を同列に扱っていたことが見て取れる。上海博物館蔵戦国楚竹書からは儒家と墨家を同列に扱っていたことが見て取れる。馬王堆帛書からは道家と法家を同列に扱っていたことが見て取れる。「徳」は孔子と孟子の独占ではなく、「道」は老子と荘子の専有ではなく、「法」は商鞅と韓非の独り占めではなかった。諸子百家の思想的融合の根本理念とは「統一的な秩序」の確立だ。儒家は「一に定まる」という礼楽(社会秩序を保つ礼と人心を感化する楽)の道徳秩序を強調し、法家は「同文同軌(文字と車輪の幅の統一)」の権力・法律秩序を強調し、墨家は「尚同(人々が一つの価値基準に従うことで社会を繁栄させる)」「一を執る」という社会階層秩序を強調した。極端に自由を強調する道家も同じで、老子の「小国寡民」の上には「天下」と「天下王」もある。荘子も「万物多しと雖も其の治は一なり」と強調した。

 戦国時代は思想・制度の鍛錬の場になっていた。秦国の法家は大一統の基礎となる政権で貢献した。魯国の儒家は大一統の道徳秩序で貢献した。楚国の道家は自由な精神で貢献した。斉国は道家と法家を結び付け、無為にして治まる「黄老の術」と、市場によって富を調節する「管子の学」を生み出した。魏・韓は合従連衡外交の戦略学で貢献した。趙・燕は騎兵と歩兵を合わせた軍事制度で貢献した。最終的な結果こそが漢朝だ。

 大一統は秦が天下を併呑したのではなく、天下が秦を吸収したのだ。

 

睡虎地秦簡など古代の文献に記載されている内容には、東アジア文明の遺伝子が含まれている(写真提供・潘岳) 
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