霍建起・映画監督:「郷愁を撮るのは運命だった」

2019-07-08 16:15:07

王衆一=聞き手 霍建起=写真提供

 

1999年に中国で上映され、続いて日本や韓国などでセンセーションを巻き起こした映画『山の郵便配達(原題:那山那人那狗)』は、80年代初頭の中国湖南省南西部、綏寧県の農村を舞台にした郵便配達人に関する物語。20年を経て、このほど4Kレストア版が公開された。この上映に先立ち、霍建起監督は本誌・王衆一総編集長の単独インタビューに応じ、映画との関わりや『山の郵便配達』公開時の裏話などを語った。

 

本誌の王衆一総編集長の取材を受ける霍建起監督(左)(写真・袁舒/人民中国)

 

霍建起監督の略歴

映画監督。1982年、北京電影学院美術学部を卒業後、北京映画製作所で美術設計に従事。95年に映画監督となり、国内外の映画賞を数多く受賞。主な作品は『山の郵便配達』『ションヤンの酒家(みせ)(原題:生活秀)』『故郷の香り(原題:暖)』『愛のしるし(原題:秋之白華)』など。

 近年、東京国際映画祭、長春国際映画祭、上海国際映画祭で審査委員を務めた。

 20051228日、北京の人民大会堂で開かれた中国映画誕生100周年大会で、他の映画芸術家49人と共に「際立った貢献のある国家映画芸術家」の称号を受けた。

 

映画を見るため電影学院へ

――北京電影学院に進学した理由は映画を見るためだったそうですね。

 霍建起 そうです。子どものころ、家の近くにあったある職場の付属の劇場で、一般公開されていない映画が頻繁に上映されていて、よく紛れ込んで見ていました。78年の大学入試で私は中央工芸美術学院と北京電影学院に同時に合格しましたが、北京電影学院に進学すれば、より多くの素晴らしい映画を見られると思って単純に後者に決めたのです。運命的にも人生の道がこれで決まったのです。

 

――霍監督は第5世代の映画監督に属すると思われますか?

  78年度入学生の中では私は若い方で、同期の田壮壮、陳凱歌、張芸謀らは少なくとも6歳上でしたから、皆さんは私が第5世代だとは思っていないかもしれません。私は美術専攻で学んだため、卒業後は十数年にわたって美術の仕事をし、95年にようやく独立して監督として映画を撮りました。ですから、監督デビュー作が第6世代の監督と同じ時期という第5世代の監督です(笑)。

 

――前の世代の監督と異なる第5世代の叙事に対する意識は?

  授業では、第4世代の鄭洞天監督や謝飛監督がフランスのヌーベル・バーグやイタリアのネオレアリズモなどの映画を紹介してくれました。そのように先輩世代の啓蒙を受けながら、さらに遠くへ進み、さらに独立独歩で行動しました。『去年マリエンバートで』のような映画は分からなければ分からないほど良いと思い、誰もがいっそう飛躍を追求しようとしていました。そのため陳凱歌や田壮壮、張芸謀らは駆け出しのころ、上の世代にはなかった前衛性を持っていました。これにより、第5世代の映画の全体的な風格は、5060年代の大衆性とは異なっていきました。

 

夢の実現のためメガホン取る

――大学卒業後に長く美術の仕事をしていたとのことですが、どのようなきっかけで独立して映画監督になりたいと思ったのでしょうか?

  卒業後とても長い間、映画と関係のある美術の仕事をしました。美術スタッフとして『盗馬賊(原題:盗馬賊)』『再見のあとで(原題:大撒把)』『激情との遭遇(原題:遭遇激情)』など多くの映画に関わり、自分で物語を語りたいという衝動がそのうちにだんだん生まれてきました。そこで私は2年余りの時間を使って試し、広告フィルムを何本か撮影し、映画撮影の感覚を磨き上げ、独自の方法でメガホンを取ろうとしました。

 

――1作目はどのようにヒットしたのですか?

  デビュー作は95年の『WINNER(原題:贏家)』です。妻の蘇小衛は脚本家で、本来私が成功すると見込んではいませんでしたが、映画監督という私の夢を実現させるため、わざわざ私のためにこの脚本を書いてくれました。映画は私個人で投資家を探しました。北京映画製作所の韓三平所長もバックアップしてくれました。こうして脚本、投資、製作会社が全て解決し、撮影を開始できました。

 完璧な作品ではありませんでしたが、十分ユニークな作風で各方面からよい反応があり、96年の大学生映画祭最優秀デビュー作賞、中国映画華表賞優秀作品賞、最優秀脚本賞、上海映画批評家協会賞ベストテン作品賞、最優秀監督賞、長春映画祭最優秀脚本賞、金鶏賞最優秀デビュー作賞など、その年の中国映画界の賞をほぼ総なめにしました。どちらかといえばとても運が良かったといえるでしょう。

 

ローカル局のドラマ企画を映画に

――どのようなきっかけで湖南のような地方で映画を撮ろうと思ったのですか?

  98年に湖南省の瀟湘映画製作所が小説『那山那人那狗(あの山、あの人、あの犬)』をベースに私にドラマを撮らせようとしましたが、私は湖南省南西部の大自然の風景が大好きなので、ぜひ映画化したいと頑張り続け、当時の政策を利用して資金を集めました。製作チームはとても小さく、辺ぴな場所で撮影し、皆が真っ黒に日焼けしました。しかし、誠実に仕事をすれば天は必ず見ていてくれると常に思っていました。

 

――主人公の息子が父親を背負って川を渡るという印象深いシーンがありますが、これはもともと脚本にあったのでしょうか?

  そのシーンは脚本にありました。しかし、映画は後から多くのシーンが加わって豊かになるものです。こうしたノスタルジーを

撮ることは運命づけられていて、私の内面にあったのだと思っています。自分が幼いころに生活し、今では風化して消え去った世界を懐かしむ気持ちが頭から離れないからです。『山の郵便配達』には、父親の心の中に立ち上るような情感がほどよくあり、まさしくそこが私の一番好きな部分なのです。それはノスタルジーであるのみならず、そのフラッシュバック自体も前衛的なもので、伝統的な叙事スタイルとは異なります。

 

『山の郵便配達』のクライマックス。大人になった息子が父親を背負って川を渡るシーンが多くの観客の共感を呼んだ

 

『山の郵便配達』のワンシーン。主人公の親子が緑あふれる湖南省の山道を歩いている

 

――そのように新鮮な感覚があり、また最も深い部分で心の琴線に触れる普遍的な情感が、世界との対話で鍵となる要素になっているのではないでしょうか?

  その通りです。それは世界的なものです。私はモントリオール世界映画祭で、観客が心を動かされる感覚や感動は言葉や表情ににじみ出るのだと身をもって理解しました。後にこの作品が日本で配給に成功したのも、観客のそうした反応の恩恵にあずかったからです。当時、北京映画製作所が日本の文化代表団を受け入れました。ある代表団メンバーは新華書店で買ったビデオCDを持って私にサインを求めてきて、さらにネクタイを1本プレゼントしてくれました。彼は目に涙を浮かべ、私たち日本人は父親の後ろ姿を見て大きくなったんです、と言いました。

 

東洋人共通の情感でヒット

――日本ではどのようなきっかけで成功したのでしょうか?

  2000年に瀋陽で金鶏百花映画祭が開かれた時、授賞式前に『山の郵便配達』が上映されました。当時、定年前に東宝で配給の仕事をしていた深沢一夫さん、『キネマ旬報』の植草信和さんも活動に参加し、現場の観客の反応に感銘を受けました。後に深沢さんは森川和代さん(中国映画研究家)を通じて北京電影学院の倪震教授を探し、仲介を経て私にたどり着き、日本での配給について話し合いました。最終的に深沢さん個人と岩波ホール、植草さんが代表する『キネマ旬報』、東宝の4社が協力して日本での上映権を購入し、1年かけて宣伝と配給を行う準備作業を計画しました。

 01年2月に東京へ行って発表会に参加し、メディアの取材を受けました。作品は4月に岩波ホールで公開され、その後、評判が高まっていきました。3月25日付けの朝日新聞「天声人語」までもが前例のないことに、この映画を紹介してくれました。すぐに上映が日本全国に拡大されました。

 

日本での配給を手がけた岩波律子さん(左)と岩波ホールにて(2001年)

 

――日本でこれほど広く長期間にわたって影響を与えていることは、監督にとっても予想外ではありませんか?何がこの影響力を生み出したのでしょうか?

  やっぱり東洋人共通の親子の情感があったからだと思います。このような情感は全世界でも共通ですが、日本人と中国人の場合、それが直接的に表現されることはあまりありません。こうした共通性によって、日本人はいっそうこの映画に共感したのではないでしょうか。

 

――『山の郵便配達』の後、『故郷の香り』で日本人俳優の香川照之さんを起用しましたね。この作品の反響はいかがでしたか?

  これは莫言の小説を脚色した純粋な中国映画で、純粋な中国式ノスタルジーを表現しました。日本での配給のことを考え、日本側の意見を聞いて香川さんを起用しました。この作品で彼は東京国際映画祭の優秀男優賞を受賞しました。今でも覚えている小さなエピソードがあります。受賞が発表された時、彼は全く準備しておらず、ネクタイも着けずにステージに上がり、人前に立った後、キャンディーをなめていたことに気付き、興奮して飲み込んでしまったそうです(笑)。

 

山田監督と年齢超えた交友

――山田洋次監督と初めて会ったのはいつですか?それからどのような交流がありますか?

  初めて会ったのは05年です。その時は『初恋の想い出(原題:情人結)』が上海国際映画祭のコンペに出品され、私は山田監督と同じ列に座り、彼の中国側バイヤーの紹介を通じて知り合いました。それ以来、私たちはよく交流しています。後々、映画チャンネルの『映画の旅』の取材にも一緒に参加しました。

 その後、私も東京で彼を訪ねました。山田監督は松竹の大黒柱で、『男はつらいよ』など常に笑いの中に涙があるような作品を撮っています。松竹で山田監督の部屋を訪ねると、松竹の筋向かいにあるレストランでごちそうしてくれました。その時はちょうど『砂の器』公開30周年で、窓から外を見ると隣のビルには『砂の器』の巨大な広告がありました。山田監督は『砂の器』の脚本家の一人です。『砂の器』は大学生のころ上海で観ましたから、とても親しみを感じました。

 その後、私は中国電影資料館で監督の『東京家族』のプロモーションに協力し、とても有意義な対談をしました。

 

――お二人はお互いの心の中に自国の「原風景」に対する美しいイメージが存在しているのではありませんか?

  あの忘れられない偶然を覚えているでしょう。11年に私たちが一緒に映画の視察のために日本へ行き、観客と交流した時のことです。瀬戸内海の美しい都市である広島県竹原市で、私たちが路地を歩いていると、少し離れた場所で蒼井優さんと一緒にロケ地を眺めている山田監督を、王総編集長がひと目で見つけました。当時、山田監督は『東京家族』を構想していたのでしょう。王さんは後に、瀬戸内海は日本人の心の「原風景」だと説明してくれましたよね。実際のところ私の心の中では、中国の農村の美しい山河こそが私たち中国人の心の「原風景」なのです。

 

瀬戸内海周辺でロケハンしていたところ、偶然の再会を果たした霍建起監督と山田洋次監督 (左) (写真・王衆一/人民中国)

(構成=袁舒)

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