奈良で見た仏教交流

2023-02-16 10:54:00

張雲方=文・写真提供

ららかな1976年の春、私は日本到着後初めて東京を離れ、奈良、京都、九州に取材に行った。 

奈良で鎌田忠三郎市長から、69年に西安市革命委員会の孫長興主任に手紙を送り、姉妹都市提携を結ぶことを提案し、74年2月1日に奈良と西安の姉妹都市締結が希望通り実現したことを聞いた。 

奈良は古代の中日交流においてかけがえのない聖地であり、東大寺と唐招提寺は奈良で必見の人気スポットだ。 

大華厳寺とも呼ばれる東大寺は、728年に創建され、758年にその本堂である大仏殿が竣工。荘厳な大仏殿は世界最大規模の木造建築物として知られている。堂内には、743年に鋳造された高さ約15㍍、重さ約380㌧の盧舎那仏像があり、孝謙天皇の報身仏だと言われている。孝謙天皇は女帝・武則天を崇敬し、東大寺の住職によると、この盧舎那仏像は洛陽の龍門石窟にある盧舎那大仏(武則天の報身仏)にそっくりだという。 

754年、鑑真は東大寺の戒壇院で聖武上皇、光明皇太后、孝謙天皇に菩薩戒を授けた。その後、430人の沙弥に具足戒を授け、神栄、行潜ら55人にも授戒を行い、三師七証による授戒様式がここから正式に開始した。これが日本における戒律制度の始まりであり、鑑真はそのために天皇から「伝灯大法師」の称号を与えられた。 

東大寺で最も驚嘆させられるのが正倉院だ。8世紀後半に建てられたこの正倉(高床倉庫)には、主に756年に光明皇后が東大寺に献納した聖武天皇の遺品600点余りが収められている。1万点近くの正倉院の宝物は、主に唐の時代の中国の物と中国を経由して西域から伝わった物、奈良時代に中国風のデザインを取り入れた日本産の物と3種類に分けられており、まさに「唐代のルーブル美術館」と言える。聖武天皇の遺愛品で世界唯一の唐螺鈿紫檀五絃琵琶や重さ11・6㌔の日本最大の香木である黄熟香、木画紫檀碁局、紅牙撥鏤撥、王羲之・王献之父子の書法、平螺鈿背円鏡など、貴重な宝物は枚挙にいとまがない。 

正倉院が宝物を数十点選んで公開するのは、毎年秋の決まった時期だ。「残念ですが、公開の時期ではないため今回は写真でのご鑑賞となります」と、東大寺の長老から申し訳なさそうに言われた。 

観光客でにぎわう奈良のもう一つの人気スポットは、鑑真によって建てられた唐招提寺だ。鑑真は758年8月1日に大和上に任じられ、翌年に新田部親王の旧邸宅跡が与えられた。戒律を伝え仏法を広めるため、鑑真は旧宅跡に唐律招提寺、すなわち今の唐招提寺を建て始めた。残念なことに、鑑真は770年に完成した唐招提寺を見ることなく、763年に円寂した。 

南大門に掛けられている扁額「唐招提寺」は孝謙天皇が王羲之、王献之の書風にならって書いたものだ。「招提」はサンスクリットで、「四方」「乾坤」を意味する。講堂と戒壇は天平時代に建てられたものであり、その後の奈良時代末期から鎌倉時代にかけて、金堂、鼓楼、礼堂が建てられた。 

唐招提寺の開山堂の手前に句碑があり、そこに俳人・松尾芭蕉が1688年に訪れた際に詠んだ句が刻まれている。 

若葉して御目の雫拭はばや 

鑑真和上円寂1200年に当たる1963年5月6日、趙樸初氏(仏学家、元中国仏教協会会長)は『鑑真大師記念碑頌』と題する詩を詠んだ。 


巍巍魯殿,燦燦奈良。荘厳廟像,儼然盛唐 


7475年には、また次の詩を詠んだ。 


好与影堂添印証,風月同天弟兄邦。 

两邦兄弟永相親,二分明月招提寺。 


唐招提寺の森本長老は、「趙氏は唐招提寺に特別な思い入れがあり、将来自分の遺骨を鑑真の墓の近くに埋めてほしいと言っていました」と教えてくれた。後から聞いた話だが、趙氏が92年に日本を訪問した際に抜け落ちた歯は、鑑真の墓の近くに埋められたのだという。2000年に趙氏が亡くなると、氏の遺言に基づき、その遺骨の半分が鑑真の墓近くに埋葬された。 

森本長老は二つのことを明かした。一つは鑑真が祖国を離れて1200年以上たつので、その坐像を「里帰り」させたいということ。もう一つは御影堂の障壁画制作を企画しており、日本を代表する画家東山魁夷に依頼し、そのうち「山雲」はすでに完成しており、「濤声」も現在制作中であるということ。私はすぐに森本長老の意向を中国に報告した。その年、東山氏は招かれて訪中し、名山大河を遍歴し、その障壁画の内容を充実させた。


1976年初春、奈良公園を見学し、鹿に鹿せんべいをあげる筆者(写真中央)

78年9月、鄧小平副総理が訪日したことで、森本長老の願いは共にかなった。鄧副総理は、「鑑真に『里帰り』させるべきだ」と言った。その後、御影堂障壁画も完成した。79年、第5期全国人民代表大会常務委員会副委員長の鄧穎超氏が唐招提寺を訪れ、森本長老に「鑑真和上の『里帰り』を歓迎する」と表明した。80年4月13日、森本長老が付き添う中、鑑真和上の乾漆夾紵坐像が1200年以上の時を経て故郷に帰った。上海空港では春雨がしとしと降り、新緑の若葉が芽生えていた。翌日、鑑真の故郷揚州では青空と白い雲が広がり、そよ風が吹く好天に恵まれた。森本長老は、「これは仏様のご意志です。願いがかない、大師は里帰りできました」と言った。 

見学中、森本長老に御影堂を案内してもらった。そこは森本長老が建造を指示した寝殿造りの建物で、中には開山堂から移された鑑真の乾漆夾紵坐像が奉安されている。長老が千年間座禅を続ける鑑真を邪魔しないよう軽く扉を押し開けると、静かで厳かな坐像に一筋の陽光が降り注ぎ、光り輝いた。鑑真の坐像は年に一度しか公開されないが、森本長老と鎌田市長のご厚意で特別に見せてもらった。 

御影堂を後にし、唐招提寺北東にある鑑真のお墓参りをした。青々とした木々の中に石塔がひっそりとたたずみ、階段を上がると、さまざまな時代に中国から移植したモクセイや牡丹、芍薬が目に飛び込んでくる。特に目を引くのが唐招提寺蓮、孫文蓮、唐招提寺緑蓮、日中友好蓮だ。蓮に関する話は、後の鄧穎超氏の日本訪問の章で詳しく紹介する。 

(役職名・肩書きは当時のものです)  

  

 

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