内山嘉吉と木版画

2022-10-01 16:56:14

劉徳有=文 

内山嘉吉と言ってもピンとこない人が多いかもしれないが、戦前上海で内山書店を経営していた内山完造と言えば、1920年代末期から30年代にかけて中国の文豪・魯迅と親しく交わったことで広く知られている。内山嘉吉はその実弟。兄の勧めで東京にも内山書店を開き、書籍を通じて中日間の文化交流に携わった友好人士である。氏との最初の出会いは、確か56年の7月、日本の出版界代表団のメンバーとして訪中されたときだった。団の通訳を務めた関係で氏と懇意になり、長い間お付き合いをさせていただいた。 

64年の秋、筆者は新華社の記者として日本に駐在するようになった。そのころ、東京の内山書店は神田のはずれの一ツ橋にあったが、68年に、書店街の神保町すずらん通りに移った。内山嘉吉氏が20~30年代にたびたび上海に行き、魯迅先生と交際があったことを知り、78年初頭、取材を兼ねて嘉吉氏を訪ねた。古希を過ぎた嘉吉氏は、書店の階上の客室で、四十数年前上海で初めて魯迅に会った思い出を語ってくれた。 

28年の夏、当時成城学園で美術を教えていた嘉吉氏は夏休みを利用して上海の内山書店に、図書目録の作成の手伝いに来ていた。 

ある日、店で棚卸しをしていると、黒の長衫(裾の長い中国服)をまとった魯迅が姿を見せた。さっそく兄の完造が引き合わせてくれた。 

「これが魯迅との初対面です。あの真っ黒なひげ、太い眉、深い色をたたえた目が実に印象的で、今でも忘れられません」 

31年8月、嘉吉氏は夏休みに再度上海に赴いた。日本を出るとき、教え子たちに自作の木版画をはがきに刷って送るよう命じていたので、ある日、数枚の簡単な木版画の「暑中見舞い」が送られてきた。これを見た完造氏夫妻が「木版画の技法」を尋ねたところ、嘉吉氏は、日本から携えてきた道具を持ち出し、その場で説明をしながら、実際に一枚彫ってみせた。 

ちょうどそこへ、魯迅が現れた。木版画のはがきと、刷り上がったばかりの木版画をじっと眺めていたが、やがて嘉吉氏に、「美術をやっている中国の青年たちに木版画の技法を話してくれまいか」と求めた。嘉吉氏は初め尻込みをしていたが、兄もはたから極力勧めたので、喜んで引き受けた。 

8月17日、魯迅の主宰する木版画講習会が始まった。嘉吉氏が内山書店で待っていると、間もなく真新しい真っ白な長衫を身に着けた魯迅がやって来て、店内が急に明るくなったような気がした。 

嘉吉氏の回想—— 

「先生は非常に気を使われていたようです。その日の服装からも、この講習会にどんなに熱情を注ぎ、期待を寄せていたか、感じ取れました」 

この日から、丸々6日間、魯迅は毎日朝早く内山書店に嘉吉氏を迎えに来て、一緒に会場へ赴いた。会場では、嘉吉氏が日本語で話し、魯迅が自ら通訳を買って出た。 

「すっかり恐縮してしまいました。内容のある話はできませんでしたが、中国語の分からない私には、ただ魯迅先生が通訳の中で『チャコ、チャコ』と言われたのを今でも覚えています。それはどう意味でしょうか?」と嘉吉氏。 

「『這個這個』は、日本語で言えば、『あのう、あのう』という間投詞のようなものです」 

嘉吉氏は講習会で学生たちに日本の版画史と、当時、日本の左翼運動でいかに木版画が闘争の武器に使われたかについて話し、木版画の手ほどきを行った。魯迅は通訳だけでなく、外国の優れた版画や画集をいくつも持ってきて、学生にいろいろと紹介された。 

「魯迅の主宰した木版画講習会で講師を担当したことを、私はこの上なく光栄に思っています。これも兄の完造が魯迅と厚い友情で結ばれていたおかげです。一生のうちで、いささかでも魯迅のために力を尽くすことができたのは、何という名誉なことでしょう」と、嘉吉氏はしみじみと語った。 

講習会が終わった日、魯迅は嘉吉氏や学生ら全員と記念写真に納まった。また、嘉吉氏は記念として学生8人の作品15点を譲り受けて日本に持ち帰り、戦後まで大事にしまっておいた。 

嘉吉氏としては、これらの作品をいつかは日本で展示しようと考えていたが、機会は長い間やって来なかった。ようやく75年4月になって、初めて中国のほかの木版画と並んで、日本の観衆の目に触れたのだった。後にこれらの作品は、群馬県と富士市の美術館でも展示された。概算統計ではあるが、前後して約十数万に上る観衆が、魯迅主宰の木版画講習会のときの作品に接したという。 

  

木版画講習会記念撮影(上海にて)。前列右から3人目は魯迅、2人目は内山嘉吉氏(写真・劉徳有氏提供)   

魯迅は、木版画を革命の武器にせよと、日ごろから主張していた。中国の近代木版画は、魯迅の指導した木版画講習会を通じて、急速に開花し、実を結んだと言ってもよかろう。 

応接間の書棚から一冊の雑誌を取り出した嘉吉氏は、氏の書いた一文を見せてくれた。 

「中国の木版画芸術は、解放を求める中国革命のなかで、人民を闘争へと立ち上がらせる力となった」「解放後の中国においても、木版画は大きな力を発揮している。(中略)農村でも、工場でも、畜産区でも中国人民解放軍のなかでも、アマチュア木版画家が数多く生まれている。私は敬服の念をいだいてこの事実を見つめるものだが、同時に私の脳裏には、白い長衫を着た魯迅の姿が彷彿としてくるのだ」 

嘉吉氏は興奮した面持ちで、上海で魯迅の家に招かれた話をしてくれた。それは31年8月、講習会が終わり、嘉吉氏が上海から帰国する直前だった。魯迅はドイツの有名な版画家、コルヴィッツの木版画一組を内山氏に贈った。包装に魯迅直筆の署名がしてあった。 

34年春、嘉吉氏の長男が生まれたときに、魯迅はお祝いに許広平夫人が縫った小さなマントや赤い服などをわざわざ上海から送り届けてきた。その後、嘉吉氏は上海の魯迅から2回手紙を受け取った。一通は、木版画講習会に参加した学生の中に、旧政府に逮捕、投獄されるか、行方不明になったものがいることを知らせた手紙で、当時の白色テロのすさまじさが反映されていた。魯迅はまた、嘉吉氏一家の安否を気遣うとともに、中国の木版画を刷りこんだ便箋を同封して、成城学園の生徒諸君に分けてください、と依頼してあった。成城学園の生徒が木版画を送ってくれたことに対する返礼であった。 

すでに学校を離れていた嘉吉氏は、いつか学校に持参して展示するつもりでいたが、第2次大戦中、疎開先に保存してあった魯迅の手紙と木版刷りの便箋は空襲で焼かれてしまい、これは補うことのできない損失ですと、嘉吉氏はとても残念がっていた。 

 

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