お年玉

2021-01-18 16:30:31

 

崔文=文

鄒源=イラスト

私と妻は毎年大みそかになると、双方の田舎で年越ししない時には、田舎の母に電話をして様子を聞き、別の都市にいる義理の母にはSNSアプリの送金機能を使ってお年玉を送る。

しかし昨年はお年玉を送る時に、手違いが起きてしまった。お年玉のお金が戻ってきた時、私は義理の母に送るお年玉を誤って田舎の母のスマホ(スマートフォン)に送ってしまったことに気付いた。そこで私はあわててお年玉を義理の母に送り直し、いつも通り総額を書いて、「お義母さん、新年おめでとう!」とメッセージを送った。お年玉はすぐに受け取られ、「婿殿、ありがとう!」と返事がきた。

落ち着いて考えてみると、母はスマホのSNSアプリを使ってはいるものの、お年玉を開くことができなくても不思議ではなかった。ある時、母が私に3回続けてビデオ通話を発信してきたが、勤務中だった私は、ビデオ通話がつながるなり、母が何か言う前に、「今勤務中だから、何かあるんなら夜にして」とぶっきらぼうに言ってしまった。

母は過ちを犯した子どものようにうろたえ、「ビデオ通話は近所の張おばさんがやったの。彼女はあなたが出さえすれば、私は毎日あなたを見ることができると言ったのよ」とバツの悪そうな顔をして言った。後に私は電話で言い訳をしたが、それ以降、母が私にビデオ通話をかけてくることはなかった。

間もなく、母は自動車事故であの世の人となった。母は痩せた身体を静かに横たえ、両目をきつく閉じていて、顔は紙のように白かった。私は母がこのように私から離れていったことを信じることができなかった。

子どもの頃、母は私の足が冷えないように、夜中のうちに私の靴の中敷きを温めておいてくれたので、温かい靴の中敷きと共に私は子ども時代を過ごした。中学に入り、学校でブレークダンスコンテストが行われた時、母は人にお金を借り、街へ行く人に頼んで、私のために格好いいドルマンスリーブの服を買ってくれた。私は2等賞を取り、母の愛に応えた。こうしたことを思い出すと、思わず目が潤んでくる。

母の遺物を整理している時、母のピカピカに磨き上げられたスマホを手に取ってみると、待ち受け画面には私の子ども時代の写真が表示されていて、SNSアプリの「お気に入り」の中には、意外なことにお年玉のスクリーンショットがあり、それは間違いなく母に誤って送ったあのお年玉だった。まさか母は……。

通夜のその夜、私は今までにないほど動揺した。母の遺骨は実家近くの名もなき小山に埋葬され、私が墓前にひざまずき、母のために紙のお金を燃やしていると、後ろにいた張おばさんが、「これは姉さんの長男で、この長男はとても親孝行な子で、姉さんは息子がしょっちゅう家に電話をしてきて、毎年お年玉をくれると言っていたわ」と墓参りに来た人に語っていた。

これを聞き、私は涙ながらに激しく後悔し、こぶしを握って激しく自分の胸を打ち、心の中で「母さん、こんな親不孝な私をお許しください」と叫んでいた。

今年の大みそか、私は母の遺影を居間の真ん中に置き、隣にあのピカピカのスマホを置いた。そしてひざまずいて頭を地に3回つけて拝んで、母のスマホにお年玉を送り、「母さん、春節おめでとう!」とメッセージを送った。

私のお年玉は母に届くが、開かれることはない。夢に母が出てくるといつでも、彼女はあのピカピカに磨かれたスマホを持ち、近所の親戚の所まで走っていって、私の「親孝行」を話しているのだ。

 

翻訳にあたって

中国の「红包」(お年玉)は、日本のように子どもだけがもらえるというものではなく、身近な人同士で上下の関係もなく送り合うことができる。中国版のLINEで、10億人近くが利用しているSNSアプリ「微信(ウイーチャット)」には、「红包」を送る機能もあって、グループトークのメンバーに一定金額のお年玉をランダムに配分するように設定することもでき、中国の人たちは半ばゲーム感覚でお年玉のやり取りを楽しんでいる。

主人公が後悔のあまり行った「こぶしを握って激しく自分の胸を打ち」という動作は、自分の心のうちを身体動作で表現することが少ない日本人にとって、大げさで芝居がかったものに感じられる。こういった細部にも、中国と日本の文化的差異をみることができる。

(福井ゆり子)

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