中国最初の冬季五輪旗手 氷上の夢を次世代に託す

2021-12-29 15:58:19

 

自宅に飾っているレークプラシッド冬季オリンピック開会式の入場の写真と、

当時のスピードスケート男子1000の試合中の写真を手にする趙偉昌さん

 

1979年、中国オリンピック委員会(COC)は国際オリンピック委員会(IOC)の合法的議席を回復した。翌年、COCは初めて冬季オリンピックに代表選手団を派遣し、スピードスケート、フィギュアスケート、アルペンスキー、クロスカントリースキー、バイアスロンの5競技に28人の選手が出場した。

その開会式で、趙偉昌さんは中国代表選手団の旗手を務めた。吉林省長春市出身の趙さんはスピードスケート選手で、中国男子スピードスケート選手権のオールラウンド部門で連続11回優勝し、中国記録を26回も更新し、代表選手たちから大きな期待が寄せられていた。しかしこの大会での趙さんの最終的な成績は、スピードスケート男子50031位、100024位、150025位だった。

80年の冬季オリンピックで中国代表選手団は一人もベスト8に進出できなかったが、今では計13個の金メダルを獲得している。この歴史の移り変わりを見てきた趙さんは喜ばしい気持ちでいっぱいだ。

 

1976年開催の第3回全国運動会でスピードスケートを滑る趙さん(手前)

 

レベルと物資の差を体感

1980年、米国のレークプラシッドが48年ぶりに2回目の開催地に選ばれた冬季オリンピックは、中国代表選手団を初めて迎えた。2月13日、ほとんどの中国人が年越し用品を買って春節を過ごす準備をしているさなか、当時30歳の趙さんは人生のハイライトを迎えていた。中国人旗手として、冬季オリンピック開会式の会場に初めて足を踏み入れたのだ。当時のことを趙さんはこう振り返る。「会場全体から万雷の拍手が湧き、歓声が上がり、中国がオリンピックの大舞台に帰ってきたことを歓迎していました。この上なく光栄に感じ、とても感激しました」

しかし、冬季オリンピック初出場という興奮は急速に冷めていった。スピードスケート男子500、1000、1500では国内試合より速く滑り、自身の中国記録を上回ったが、成績は20位圏外だった。当時の中国選手の中で一番好成績だった雪上競技でも19位だった。その年、レークプラシッドのスピードスケート会場で注目を集めていたのは米国のエリックハイデン選手で、上り調子の彼は5種目を制覇した。「こんな天才的な選手がいるのか」と趙さんは痛感したという。より驚いたのは、当時の中国選手は遠征前にスーツケースや衣装をどこかからかき集めなければいけなかったのに、海外の多くの選手は会場入りしてからも理学療法士が付き添っていたことだ。

当時の中国は改革開放の道を歩んだばかりで、ウインタースポーツ用品が全然足りておらず、日本のアシックス社が代表団に衣装を提供した。当時、同社は主にスキー用品を製造していたため、代表団に提供できる競技用品は雪上競技向けのものばかりで、趙さんら氷上競技選手向けのものはなく、趙さんは普段のトレーニングウエアを着て試合に臨むしかなかった。代表選手たちには2着のダウンジャケットが配られた。青い服は開会式と閉会式の時に着る用で、もう一着は赤い服だ。この時の協賛は日本企業による中国代表選手団支援の歴史の幕開けとなった。88年のソウルオリンピックの中国代表選手団の衣装もアシックス社の提供によるものだ。残念ながら、オリンピックの出場経験不足に加え、準備時間に余裕がなかったこともあり、冬季オリンピック初出場となる中国代表選手団の衣装には五星紅旗がなく、胸元にあるビニールのポケットに真っ赤に輝く国章を付けただけだった。

「あまりにも差が開いている!」。これは趙さんがこの冬季オリンピック遠征で得た一番の感想だ。しかしこうも思ったという。初の冬季オリンピックの経験は中国のウインタースポーツ発展の糧となり、金メダルを獲得するという将来の夢を生んだ。「当時、中国のスポーツ界が一日でも早く強くなればと感慨にふけりました」

 

趙さんの家には国内外の大会で獲得した数多くのトロフィーや盾が飾られている

 

40年で二つの夢がかなう

今年、長春市のスケート場では、「冬季オリンピックの夢を追い、高みを目指せ」というひときわ目立つ言葉が表示されたLEDモニターの下で、数十人の若者がトレーニングに励んでいた。そのそばで、髪が真っ白になった趙さんが子どもたちの技術や動きに注目していた。氷上をシャーシャーと滑るスケート靴の音が過去の記憶を呼び起こす。

趙さんは1950年生まれで、物資や娯楽が相対的に不足していた当時、天然の雪や氷で遊ぶのは東北の子どもたちにとって真冬の日常だった。1枚の木の板と2本の針金で作る即席のスケート靴は「滑子」といい、子どもの頃の趙さんにスピードスケートを手ほどきした。この「滑子」をパートナーとして、趙さんは同い年の子どもの中でもめきめきと頭角を現していった。学生時代は長春市スポーツ専門学校と吉林省スポーツ専門学校のスピードスケートチームに選ばれ、アスリートとしての人生を正式に歩んだ。当時の中国には屋内スケート場がほとんどなく、一年のうち冬しか氷上を滑れる機会がなかった。長春市の勝利公園には湖が凍った天然のリンクがあったので、ここを練習場としていつも朝4時には来ていた。

真冬の朝4時は一日で気温が最も低い時間帯だが、基礎訓練での足りない部分を補うため、若い趙さんは厳しい寒さと「ハードトレーニング」することを選んだ。「自分自身、特に長所はありませんが、誰よりも苦労を恐れません」。持続的なトレーニングで趙さんは1970年代に中国の大会でトップスケーターになり、75年には世界オールラウンドスピードスケート選手権大会の男子500で準優勝となり、中国のウインタースポーツのトップアスリートとなった。

80年に米国から帰ってまもなく、けがと年齢を理由に趙さんは現役を引退したが、なおもリンクの上を仕事場に選んだ。吉林省スピードスケートチームのヘッドコーチと長春市スポーツ科学研究所の所長を歴任し、退職した今でもいつも各地を回って授業をしたり大会の審判をしたりする。

2002年に楊揚選手が中国初となる冬季オリンピックの金メダルを獲得し、14年には張虹選手が中国初となるスピードスケートの金メダルを獲得した。中国代表選手団の冬季オリンピック出場とハイライトシーンを趙さんはよどみなく挙げる。「一昔前のアスリートとして、中国のウインタースポーツが日増しに強くなっていくのを見て何よりも誇らしくなります」

 15年にIOCが2022年冬季オリンピックの開催都市を北京に選んだ瞬間、趙さんの目は涙でにじんでいた。夏季競技と比べ、中国の冬季競技の成績は世界トップレベルとまだ差があるが、北京冬季オリンピックの誘致成功によって中国のウインタースポーツは人々からより注目されるようになると趙さんは予想した。

「当時、中国のスポーツが一日でも早く強くなることを切望し、オリンピックが中国で開催される日が来ることを夢見ていましたが、この二つの願いはすでにかないました。中国のウインタースポーツも長足の進歩を遂げ、楊揚選手と王濛選手が2回続けて冬季オリンピックのスピードスケート競技で金メダルを勝ち取り、韓暁鵬選手も雪上競技で中国初の金メダルを獲得しました」。来年、会場で中国の「冬の子」たちを応援するのが趙さんの今の夢だ。(本誌編集チーム=文   新華社=写真)

 

長春市スケート場で若い選手たちのトレーニングを見学する趙さん(右)

 

人民中国インターネット版 202111

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