還暦のアイスホッケー部 夢を追い未来につなげる

2022-01-29 17:43:30

高原=文   新華社=写真

 2015年に北京が2022年冬季オリンピックの招致に成功して以来、ますます多くの北京市民がウインタースポーツを体験する中、アイスホッケー会場も雨後のたけのこのように次々に建設され、還暦を過ぎた男たちの心に少年時代の夢が再び燃え上がった。15年、元北京什刹海スポーツ専門学校アイスホッケーチームのメンバー9人は北京市五棵松のアイスリンクに再集結し、三十余年ぶりに共に戦った。メンバーは、自分たちが設立したアマチュアアイスホッケーチームに「北京1979」と名付けた。1979年、彼らは子どもの頃から追い求めていた「アイスホッケーの夢」を放棄せざるを得なかったからだ。

 

練習試合中にパックを奪い合う孫京京さん(左)と席軍さん

 

少年が追った氷上の夢

 1970年代、什刹海スポーツ専門学校の少年アイスホッケーチームは、北京の各小中学校から身体健康で学業優秀な生徒を募集し、アイスホッケーの専門的な練習に参加させた。曲正さんもその一人だ。60年代生まれの曲さんは什刹海そばの胡同(横町)で育ち、6歳から友達と一緒に氷上を滑った。当時、スケートは北方の子どもたちの流行のスポーツだった。運動神経に優れていた曲さんは、最初は同校の卓球チームに所属していたが、後にアイスホッケーチームのゴールテンダー(キーパー)に選ばれ、それからフォワードも経験した。少年アイスホッケーチームに選ばれたことは人生のターニングポイントだったと曲さんは話す。

 アイスホッケーは激しくぶつかり合うスポーツで、選手たちは重い防具を身に着けて全力で滑るので、体力の消耗が激しく、各選手の一試合の出場時間は一般的に2分を超えない。しかし当時の少年アイスホッケーチームの選手は交代技術を習得できておらず、歯を食いしばって耐えるしかなく、声も出せなくなるほど疲れてから手を挙げて交代をアピールするばかりだった。

 同チームは設立後、北京代表として何度も18歳以下の国内アイスホッケー大会に出場し、78年には全国6位の成績を収めた。曲さんとチームメートは当時、同じ夢を持っていた。それは、同校の先輩たちのようにプロチームに入り、プロのアイスホッケー選手になることだ。曲さんたちが一から練習計画を考え直し、翌年の大会ではさらに順位が上がると自信を持って期待していた矢先、チームはさまざまな原因をもって解散が告げられた。メンバーは散り散りになり、進学や就職をし、二、三十年アイスホッケーに触れなかった人もいた。プロ選手になれなかったことは、曲さんの人生最大の悔いとなった。

 

試合前の水分補給をする周雲傑さん

 

再びスティックを握る

 梅田田さん(60)はかつて什刹海少年アイスホッケーチームのキャプテンだった。アイスホッケーは梅さんが数十年間やめきれなかった趣味だ。自身はプロ選手になれなかったが、息子を育て上げて国家チームに入れた。2015年、北京が冬季オリンピック招致に成功し、アイスホッケーの知名度が徐々に高まる中、梅さんは当時のメンバーを集めた。最初は9人が時々滑るだけだったのが、今では40人以上になり、毎週水曜と土曜に必ず練習している。平均年齢60歳のチームは元気な姿で立ち上がった。

 いま、梅さんは家にいても体を動かしたくなり、アイスホッケーの試合の映像を流しながら、テーブルに手を置き、ソファーに片足を乗せて片足スクワットをし、時にはボールを踏んでさらに不安定な状態でトレーニングする。そして曲さんは若者のように、SNSアプリで自分のスポーツ経験・感想を共有し、アイスホッケー好きの若者と交流している。試合に出る他、青少年の試合で審判を務めることもある。より多くの若者にアイスホッケーを体験してもらうのが望みで、「アイスホッケーの発展は一朝一夕で済まず、何世代もの努力が必要」と語る。

 

練習中の選手同士の交流

 

次世代のために機会をつくる

 17年、「北京1979」のメンバーが各地から北京に集まり、1981年にチームをCプールからBプールに昇格させた国家男子アイスホッケーチームのメンバーと記念交流試合をした。

 この試合の実現に一役買った周雲傑さんは、かつて什刹海少年アイスホッケーチームのスタメンゴールテンダーで、現在は「北京1979」のゴールテンダーでもあり、成功した実業家だ。2015年、周さんの会社は世界最高レベル、観客動員数最多のプロアイスホッケーリーグ・ナショナルホッケーリーグ(NHL)のボストン・ブルーインズと協力プロジェクトの契約を締結した。中国におけるアイスホッケーの普及と青少年選手育成の促進のために力を注いでいて、例えば50人の優秀な青少年選手がボストン・ブルーインズの正式なウインターキャンプに参加するのを全額支援した。契約締結から2年後、周さんはNHLを中国に呼び寄せ、NHLのエキシビションマッチを2年連続で開催、北京と深圳で素晴らしい興行成績を残した。また、会社にプロアイスホッケークラブを設立し、国家チームに何人もの優秀な選手を推薦している。このような形で周さんは自分のアイスホッケーの夢を追い続けている。

 周さんはこう話す。「いまの中国アイスホッケーチームの世界大会における成績は理想的とは言えません。しかし北京や東北の黒龍江省、吉林省、遼寧省、そして内蒙古自治区や新疆ウイグル自治区などに暮らす人々にはアイスホッケーの基礎的な知識と経験の蓄積があります。北京に暮らす多くの60~70代にとって、1981年に北京で開催されたアイスホッケー世界選手権Cプールは記憶に新しいでしょう。その時の試合を実際に見たファンだけが、中国のウインタースポーツの始まりは中国アイスホッケーチームのプールB昇格だったと心から共感できるのです」

 中国のアイスホッケーは北米や北欧、ロシアのシステムをモデルとすることができ、大学とプロリーグを重視することが肝心だと周さんは指摘する。「これには時間を要しますが、より多くの子どもがアイスホッケーを好きになるでしょう」

 「2022年北京冬季オリンピックの招致に成功し、アイスホッケーは徐々にスポーツという一つのジャンルから中国人の生活に溶け込むようになりました。私たちの努力によってより多くの人がアイスホッケーを知り、世界的に有名なこのスポーツに詳しくなってほしいです。また子どもたちには、アイスホッケーを体験する中で絶えず成長してほしいです。私たちも中国のアイスホッケー文化の発展のために基礎となるさらなる力を育成します」

 周さんが支援したチームが北京で試合するたびに、「北京1979」のメンバーは必ず会場に行ってボランティアとして整氷作業をする。熱気に包まれる現場で彼らは、「みんながこんなに高ぶっている様子を見ると、私たちもチームメートと共に首都体育館で観戦していた若い頃にタイムスリップしたような気になります」と感慨にふけった。

 

自宅でトレーニングする程受山さん

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