文化交流の「渡し守」として半世紀 日中文化交流協会専務理事・中野暁氏

2023-05-19 15:57:00

李一凡=文 日中文化交流協会=写真提供

日中友好7団体の一つとして1956年に東京で創立された日本中国文化交流協会HP:www.nicchubunka1956.jp67年間、中日国交正常化と両国民間の友好交流を促進するために積極的な役割を果たしてきた。専務理事の中野暁氏(75)は73年から同協会に所属し、この50年間で日本の文化人とともに250回以上訪中した。 

中国外文局は2022年に「蘭花賞」の設立を発起し、世界の国際文化交流事業に身を投じ、中国国内外の文化交流と文明の相互学習の促進、グローバル文明対話と協力に力を注いだ外国人または機関を表彰している。中野氏は外国人審査員として招待され、4月下旬に北京で行われた最終審査会に参加した。その期間中に本誌は中野氏を単独取材し、中日文化交流に取り組んだ50年の経験やコロナ後の中日民間交流について話を伺った。 

日中文化交流協会の中野暁専務理事(写真・顧思騏)

「3年6カ月ぶりの訪中でした。今回、私自身も経験しましたが、現在はお互いの国を訪問するための手続きが非常に煩雑で、このままだと文化交流が広がらないと思います。でも、日本も中国もどんどん制限が解除されていますから、今年の下半期から本当の意味の対面交流が始まるのではないかと期待しています」と語る中野氏だが、その視線からは文化交流再開への期待が伺える。 

容易に想像できるが、この半世紀で250回以上中国を訪れ、古希を過ぎた中野氏にとって、この3年半は実に長かった。 

  

中日文化交流に携わってきた50 

中野氏日中文化交流協会に勤める前、大学時代には美術教育を専攻しながらヨット部に所属し、卒業後はヨットスクールの講師やヨットの開発をしていた。その時、井上靖の小説『天平の甍』を読んで、日本に渡った鑑真和上と中国に派遣された遣唐使の物語に興味を持つようになったという。「そこで、仲間を集めて計画を作って、ヨットで遣唐使の航跡をたどる冒険プランを立てました」と中野氏は振り返る。 

1971年、神奈川県の江の島沖でヨットを走らせる中野氏(上)

当時、中日国交正常化が実現したばかりで、直行便すらない時代だった。計画実行の可能性について日中文化交流協会を訪ねて相談したところ、両国関係が正常化したとはいえ、ヨットでの往来はまだ無理との答えが返ってき。この大胆な計画は断念せざるを得なかったが、中国に対する熱意は消えることはなかった。その後、中野氏は再び協会の事務局を訪れ、協会で仕事をしたいと申し入れた。 

「その頃は協会が一番忙しい時で、1971年のピンポン外交、72年の上海バレエ団の訪日など、協会は裏方として大きな役割を果たしました。私みたいな中国語もできない、中国に住んだこともない人間は普通なら採用されませんが、人手が足りなかった上に、若くて車の運転ができるし、情熱もあるということで、協会に入れてもらえました」 

1971年に名古屋で開かれた第31回世界卓球選手権大会で、日本選手の歓迎を受ける中国選手

こうして、当時25歳の中野氏は中日国交正常化翌年の73年に日中文化交流協会に入り、ヨット関係者から中日文化交流の「渡し守」へと転身した。 

わずか1カ月後の73年4月、初の大相撲中国公演のため、中野氏は117名の力士に同行して初めての中国訪問を果たした。「大相撲というのはお相撲さんが主体ですが、勝負の判定をする行司や、力士を呼び上げ、土俵整備を行う呼出など、陰で支える裏方さんがたくさんいます。みんなが中国の方々から『先生』と呼ばれ、各地で大歓迎を受けて、感激して大変喜んでいました。中国の人々と仲良くして、それを見るのが一番嬉しくて、やっぱりやりがいのある仕事だなと思いましたよ」と中野氏は語る。 

1973年4月、北京空港に降り立った力士たちと中野氏(右上、右から2人目)

その後、国交正常化後の交流ルートの拡充と中国の改革開放の実施により、文学や美術、書道、音楽などを含む各分野で、ますます多くの日本の文化人が中国に目を向けるようになり、協会の協力を得て中国で交流訪問とイベント開催を行った。事務局長、常務理事を歴任し、現在は専務理事となった中野氏もよく日本の文化人たちを連れて中国各地を訪問し、両国文化交流の最前線で活躍してきた。 

  

若者にバトンタッチ 

2019年末、新型コロナの影響で、中日両国間のオフライン形式の交流が途絶えた。 

「ほぼすべてのイベントが中止となり、対面交流ができないということは、協会にとって大きな打撃でした」と中野氏は顔を曇らせた。中国の各友好団体、協会とオンライン形式で書道展や座談会を行ったものの、やはり雰囲気が違うという。「書道展を開催しましたが、墨の匂いがしないし、筆の音もしない。出来上がった作品は雑誌とネットに載せるだけで、やっぱり限界を感じました。人の気持ちは、なかなか伝わってこないですよ」 

新型コロナの感染状況が落ち着くにつれ、蘭花賞の最終審査に招待された中野氏は、ようやく再び中国の土を踏んだ。 

蘭花賞の最終審査会で発言する中野氏(写真・顧思騏)

「新型コロナとウクライナ情勢の影響で、世界は暗闇に包まれています。しかしこの数日、明るい光が見えてきました。習近平国家主席がウクライナのゼレンスキー大統領と電話で会談し、平和の回復のために努力していくと話しました。そういう時期に蘭花賞の審査が行われるのは、本当に不思議な巡り合わせです。蘭花賞は文化の賞だけでなく、平和の賞、文明の賞でもあり、審査員として参加できることを嬉しく思います」と中野氏は笑顔で話す。 

中日文化交流に携わった半世紀、中日関係の山あり谷ありを経験した中野氏。文化交流はヨットと同じように「風を待つ」必要がある一方、じっくり考えて遠くを見てゆったりと構える必要もあるとだんだん分かってきた。中野氏と協会は青少年交流の推進を、将来を見据えた上で非常に重要なものと考えている。 

2019年、甘粛省の敦煌莫高窟を訪問した日本人大学生訪中団。団長は東京芸術大学名誉教授、日本画家の宮廻正明氏(前列右から5人目)

中野氏から見ると、メディアなどさまざまな要因の影響で、多くの日本の若者の対中理解が不足している。「若者にバトンタッチ、自分の目で中国を見てもらい、両国の雰囲気をよくするのが協会の仕事です。コロナが始まる前には、有名な作家や映画監督などの文化人を団長とする100人規模の大学生訪中団を6回派遣しました。大学生たちが文化人の話を聞きながら中国各地を見学し、さらに現地の若者と交流し、大きな成果を得ました。今年も2組の訪中団を派遣する予定です」と中野氏は紹介し、さらに「中国の友達を作り、中国文化を好きになり、中国のいろいろなものに興味を持ってもらう…中国のことを良く認識し、将来の両国関係につなげていって欲しいです」と期待を寄せた。 

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