豊台のシャクヤクを巡って
劉徳有=文
北京・豊台のシャクヤクを語るには、四十数年前の李一氓氏の日本訪問から話を始めなければならない。
1983年9月、李氏は日中協会の招きに応じ、中国国際交流協会代表団を率いて日本を訪問した。当時、私は中国外文局に勤めていたが、おそらく代表団の中では比較的若く、足も軽く、あちこち走り回れるという理由で、「秘書長」という肩書きをあてがわれたのである。
日本の友人、とりわけ学術界の人々は皆よく知っているが、李氏は著名な学者であり、博大な知識と卓越した才能を備え、学界および文芸界で非常に高い名声を有していた。当時、彼は国務院古籍整理出版計画班の班長として、古籍の収集・整理・出版に多大な心血を注ぎ、中国の文化と民族の伝統を保護・発揚する上で大きな役割を果たしていた。
李氏は日本訪問中、東京で特に国立国会図書館および国立公文書館を訪れた。また京都大学人文科学研究所では、日本の専門家と座談会を開き、中国における古籍整理の状況を紹介するとともに、中国古籍が日本に伝来した状況を把握し、国内ですでに失われた貴重な古籍を複製して中国へ持ち帰る方途を探ったのである。
京都訪問の際、日本の著名な歴史学者である井上清氏と脚本家の依田義賢氏が、李氏および代表団一行を名高い「瓢亭」へ招いて食事を共にした。その日には、日中協会常務理事の村井隆氏も同席してもてなしに加わった。

瓢亭は典型的な日本式の料亭で、京都の南禅寺の近くにあり、400年以上の歴史を有する。建物は日本の伝統様式による木造の草庵であり、環境は静かで穏やか、独特の趣がある。中庭に足を踏み入れれば、目に入るのは一面の緑、足元には小橋が架かり、流水はさらさらと音を立て、池の中の金魚は悠然と泳いでいる。草庵の一側は小路に面しており、軒下には草鞋や笠が掛けられ、入口の両脇には古びた茶道具が置かれている。聞けば、瓢亭は400年前、南禅寺へ参詣する人々が立ち寄って休み、茶を飲んだ場所であったという。当時、地方から上京してきた旅人たちはここで着替えをし、草鞋を履き替えた。そのため、今もなお当時の什器が保存され、店ではそれらを装飾として用いているのである。
瓢亭で最も名高い料理は粥、すなわち朝粥とウズラ粥である。日本人は中国北方の人々と異なり、普段は粥を食べる習慣がなく、体調を崩したときや病時に限って食べることが多い。しかし瓢亭の粥は風味料理として京都で広く知られており、井上氏の意向も「せっかく京都に来たのだから、ぜひ味わうべきだ」というものであった。
私たちは畳敷きの部屋に座り、給仕が朝粥とその他の料理を運んできた。若く美しく、物腰の優雅な女主人が、華やかで上品な和服姿で現れ、瓢亭の歴史や料理の特色を説明してくれた。そのためか、ここでいただく料理はいっそう味わい深く感じられた。李氏もこの日は非常に機嫌がよかった。
日本の習慣では、このような高級料理店に著名人が訪れると、揮毫を求められることが多く、瓢亭も例外ではなかった。李氏は帰国後に書いて人に託して送ることを約した。そしてその約束を果たし、瓢亭のために揮毫した詩は次のとおりである。
清泉幽巷見晨星,洒脱南禅寺畔行。
不意耄年還入洛,茶香粥細飽瓢亭。
静かな小道で朝の星を見て、
南禅寺のあたりを気ままに歩いた。
思いがけず老いてからまた京都に来て、
瓢亭で茶と粥に満たされた。
85年の春、井上氏は夫人を伴って中国を訪問した。4月19日の夜、李氏は一昨年の訪日メンバーを招集し、北京飯店で井上夫妻を招いて宴を催し、かつて受けた温かいもてなしへの謝意を表すとともに、客人をねぎらう歓迎の意を示した。
席上では主客共に談笑が尽きず、その中の一つの話題は、やはり瓢亭の朝粥であった。李氏は言った。
「あのとき、瓢亭であなたにも一幅書を書くと約束しました。すでに書き上げており、本日持参しました。表装が済み次第、改めて正式にお贈りします」
そう言うと、その書を客人の前に広げた。
秋爽嵐山客興奢,
錚錚史弁羨才華。
重逢珍重春光好,
看尽豊台芍薬花。
井上清先生即乞両政
李一氓呈稿
李氏はこの4句の詩について客人に説明した。
「第1句は京都を詠んだもので、一昨年秋に京都を訪れたときの情景の回想です。第2句は井上先生のことを書いています。先生は大著がすでに中国で翻訳出版されているばかりでなく、中国のいくつかの大学で講義も行っており、その深い学識と広博な知識を示しています。第3句は現在のことで、再会がちょうど春に当たったことを言っています。第4句は、字義どおりに解せば、豊台にはシャクヤクの花が多く、開花の季節になると多くの人が見物に訪れるという意味です。しかし広い意味では、中国の各方面の情勢が極めて良好であり、先生はまさにそのようなときに中国を訪れたということを表しています。この詩によって井上先生に感謝と歓迎の意を示したのです。最後の『乞両政』とは、私の詩と書の両方についてご意見を賜りたいという意味です」

私は李氏の説明を聞きながら、詩はわずか4句でありながら、井上氏および日本人民に対する深い友好の情が満ちていると感じた。
詩中の「看尽豊台芍薬花」という一句について、浅学非才の私は当時、それを単なる「時宜にかなった表現」あるいは「象徴」として理解するにとどまっていた。なぜ「豊台のシャクヤク」なのか、さらに深く考えることはなかったのである。
それから幾年か後、清代の潘栄陛による『帝京歳時紀勝』を読んだ際、私は偶然にも北京の豊台が古くからシャクヤクの名所であったことを知った。同書にはこう記されている。「都の花木の勝は、ただ豊台のシャクヤクが天下第一である」「京師の豊台、四月になると畦畔が連なり、担いで売る者は日に一万余本にのぼる。遊覧の人は車馬が列をなし、絶えることがない」と。
また清代の富察敦崇も『燕京歳時記』において、「シャクヤクはすなわち豊台の産にして、一望際限なし。四月、花が蕾を持つ頃、枝を折って売り、町々にあまねく行きわたる」と記している。
シャクヤクといえば、中国における栽培の歴史は古い。秦・漢時代以降、シャクヤクは広く庭園に植えられるようになったとされる。唐末から宋初にかけては、揚州のシャクヤクが洛陽のボタンと並び称され、天下に名をはせた。北京・豊台のシャクヤクが異彩を放つようになるのは明・清時代である。当時、士人たちは古来の習わしに従い、春の行楽シーズンになると、遼・金時代以来の名勝旧跡を訪れるのを好んだ。そこで城外へ出て法源寺でライラックを観賞し、崇效寺でボタンを観、さらに豊台でシャクヤクを愛でたのである。そればかりでなく、家々ではシャクヤクの切り枝を買って花瓶に挿して観賞することが流行し、当時の人々の好みの一つとなっていた。
民国時期以降、これらの習俗は次第に変化していった。新中国成立後は都市の娯楽施設が増え、人々の花卉観賞の嗜好も変わり、わざわざ遠方から豊台へシャクヤクを観に来る者は少なくなった。庶民がシャクヤクを瓶に挿して楽しむ習慣も、次第に忘れられていった。
こうしてみると、北京・豊台には確かに歴史上、シャクヤクの隆盛の時代があったのである。李氏が詩の中で中国の「形勢が大いに良い」ことを表すのに「豊台のシャクヤク」を引いたのは、的確で言い得て妙であると言うほかない。
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