白銀の神山が見守る秘境 伝統の技継ぐ職人の情熱
チベット民族の手仕事の美
カンゼは、シルクロード南アジアルートの四川区間における重要な結節点に位置しており、この地には41の民族が暮らしている。そのうち、チベット族の人口は全体の78・97%を占める。何百年、何千年にもわたり、チベット族の先人たちは、自らの知恵と汗によって、独自かつ貴重な伝統手工芸文化を築き上げてきた。
画布に宿る信仰と継承
炉霍県にある「郎卡傑タンカ芸術館」に足を踏み入れると、精緻なタンカ作品が所狭しと並び、展示室のあちこちに絶妙な配置でつるされている。
「タンカ」とは、チベット語の音訳であり、彩色された宗教画を錦で表装し、壁に掛けて礼拝の対象とする巻物絵画を指す。タンカの歴史は少なくとも1500年前にさかのぼることができ、文成公主がチベットに嫁いだ(643年)前後にはすでに、チベット高原でタンカに関する明確な記録が見られる。長い発展の過程で、さまざまな絵画流派が生まれた。
郎卡傑は、17世紀の著名なタンカ画の大家であり、「郎卡傑タンカ」という一派を創始した。他の画派の作品と異なり、郎卡傑タンカの最大の特徴は、「近くは写実的に、遠くはぼんやりと」「近くのものは大きく、遠くのものは小さく」といった構図法を用いて創作されている点にある。これにより、より強い3次元的な空間表現が可能となっており、画面は緻密かつ華麗である。2021年には、「チベット族タンカ(郎卡傑タンカ)」が国家級無形文化遺産の代表的プロジェクトリストに登録された。
ユムチュロウ(雍珠洛吾)氏は、郎卡傑画派の第9代継承者だ。13歳の頃からタンカに触れ、その学習を始めたという。
ユムチュロウ氏によれば、タンカの支持体は主に木綿布であり、これはタンカの際立った特徴の一つである。また、タンカの制作過程は非常に複雑で、絵の具の調合、画布の張り込み、布面の研磨、構図の下描き、仏像の比率測定、背景の描写、彩色と線描、さらにはタンカに「開眼」(注 : 仏画で最後に目を描き入れ、魂を宿す儀式的工程)を施すまで、いくつもの大きな工程を経なければならない。細部の工程に至っては数え切れないほど存在する。そのため、一幅のタンカを描くには莫大な労力と精神力を要し、制作期間も半年で済むことはまれであり、10年以上かかることもあれば、まさに一生の情熱をささげることさえある。
カンゼ州の師範学校を卒業した後、ユムチュロウ氏は県の文化館に勤務するようになり、自らが郎卡傑タンカ文化を継承し、発展させる責務を担うことを決意した。「炉霍にはこれほど素晴らしい大家(郎卡傑)がいたのですから、この素晴らしい文化をしっかりと受け継がなければなりません」と彼は語る。
そして、郎卡傑タンカをより良く継承していくためには、まず長年続いてきた「家の内にのみ伝える、男子にしか伝えない」という継承方式を打破することが必要だった。このような方式は、かつて炉霍における郎卡傑タンカを絶滅の危機にさらした。実際、1980年代にはタンカを描ける絵師は炉霍県内に10人にも満たなかったのである。
こうした状況に対して、ユムチュロウ氏らの尽力により、2007年に炉霍県郎卡傑タンカ絵画芸術協会が設立された。さらに12年にはカンゼ州郎卡傑タンカ文化有限公司が設立され、「協会+会社+農家」という発展モデルが採用された。すなわち、協会が主導して注文を受け、会社の職員が制作を担当するという仕組みである。これにより、郎卡傑タンカは国内外各地へと販路を広げることができた。
その後、注文の増加とともに、郎卡傑タンカの芸術をより良く継承するため、地元政府の支援を受けて、同社は炉霍県民族手工芸技術研修拠点を設立した。この拠点では、タンカの描画技術を学生たちに無償で教え、高い技術力を備えたタンカ絵師をより多く育てようとしている。学んだ者たちは技能を身に付けるだけでなく、収入を得ることもでき、地元住民の貧困脱却と収入増加にもつながっている。
100の工程を要する強い刀
カンゼの西部に位置する白玉県河坡鎮は、地図上では目立たない小さな場所だが、1300年以上に及ぶ兵器鋳造の歴史を有している。言い伝えによれば、7世紀、吐蕃王朝の建国者ソンツェン・ガンポが軍勢を増強し、南東方面への拡張を図ったことから、河坡において刀や槍、戈、矛、弓矢といった兵器の鋳造が始まったという。
その後、11世紀頃、チベットの英雄ケサル王が台頭した時代、戦争の中で著名な鍛冶職人チュダ(曲打)を捕虜とし、彼に命じて鍛冶職人たちを率いさせ、白玉に兵器庫を築かせた。職人たちは当時の新しい土製法を用いて兵器を鍛造し、その切れ味は鉄をも断つと称された。こうして白玉の河坡は「ケサル王の兵器庫」と呼ばれるようになった。戦の火が消えた後も、兵器職人たちはこの地に定住し、金属鍛造の技術は代々受け継がれていった。現在では、河坡で製造される白玉チベット刀、仏具、馬具、装飾品などが最も有名である。これらの製品を作る「工房」は、一般的に地元の職人の自宅に設けられている。
省級無形文化遺産の伝承者であるゲツォテンジン(根秋単貞)さん(39)の家は、「河坡チベット族金属手工芸技術伝習所」となっている。部屋に入る前から、金属を打つカンカンという音が聞こえてくる。階段を上がって2階に行くと、ゲツォテンジンさんが床に座って作業をしており、その周囲にはハンマーやタガネ、ハサミなどさまざまな道具が置かれている。
河坡の金属鍛造技術は非常に複雑で、かつ時間がかかる。手のひらほどの銅製装飾品一つを取っても、金属の溶解から鍛造成形、研磨に至るまで、全ての工程を終えるのに20日以上を要する。白玉チベット刀ともなると、必要な工程はほぼ100に及び、中でも鋼材の鍛造は最も力を要する。鋼材はひたすらたたいては伸ばし、折り重ね、再びたたいて伸ばし……という工程を繰り返すため、こうして仕上げられた白玉チベット刀は、他の刀よりもはるかに粘り強さを備えている。
とはいえ、鍛造の技に専念してきた祖先たちとは異なり、今の職人たちは技術を継承・研さんするだけでなく、市場の販路をどう広げるかについても自ら積極的に考えねばならない。近年、ゲツォテンジンさんはさまざまな展示会に積極的に参加しており、四川省内や近隣の青海省・西蔵(チベット)自治区だけでなく、北京、上海、マカオ(澳門)などにも赴いて、河坡の金属鍛造技術を紹介している。彼の「攻めの姿勢」は実を結び、今では河坡の金属工芸品が「引く手あまた」となっており、中国東部や中部からの注文が全体の40%を占めるようになっている。このように、伝統工芸と現代的な市場思考の融合によって、無形文化遺産の技が新たな命を得たのである。
歌と踊りに長けた人々
伏せた龍のような形をした夏熱山の麓には、にぎやかな新龍県の町が広がっている。初夏の夕暮れ、夕陽の余韻がそっと空をなで、夜の序曲が静かに始まる。
華やかなチベットの衣装に身を包んだ人々が三々五々とやって来て、町の中心にある広場へと集まる。夕焼けの残光の中、「円陣」の隊形がすぐに出来上がり、人々は朗々とした山歌を歌い始め、両腕の長さほどもある袖を花のように振りながら、軽やかな足取りで踊り出す。輪を描いて時計回りに移動しながら、皆でゴルシェを舞うのだ。
「話せれば歌い、歩ければ踊る」という言葉は、チベット族の人々が歌や踊りに長けていることを見事に言い表している。チベット族の歌舞文化は非常に豊かであり、その中でも民間に最も広く親しまれているのがゴルシェだ。ゴルシェは「輪舞」を意味し、チベット族の人々にとって、年中行事、結婚式、来客の歓迎、その他の祝いの場には欠かせない歌と踊りである。その起源は少なくとも5世紀前後の南北朝時代にまでさかのぼるとされる。千年以上にわたる発展と変遷を経て、ゴルシェはさまざまな流派に分かれたが、中でも「新龍ゴルシェ」はひときわ独特な特色を備えた一派だ。
「新龍ゴルシェは、その類型から見て大きく三つに分けられます。すなわち、上瞻ゴルシェ、中瞻ゴルシェ、下瞻ゴルシェです。舞いの動きに注目すると、上瞻ゴルシェは奔放で自由な表現に富み、足さばきの変化が多い。中瞻ゴルシェはタップダンスなど他の舞踊の動きを多く取り入れ、ロマンチックで躍動感があるのが特徴です。下瞻ゴルシェは肩を組んだり手を取り合ったりするのが基本で、動きの高低差や変化は少ない」と、新龍ゴルシェの特徴について語り始めたのは、国家級の伝承者であるアデ(阿徳)さん。話しぶりは熱を帯び、止まることがなかった。「新龍ゴルシェは歌詞の内容表現をとても重視しています。踊っている途中でそのまま座り込み、男女が歌を掛け合うこともあります」
アデさんは現在79歳。白髪を背中で一本に束ねた長いローポニーテールが印象的だ。「たぶん4~5歳の頃には、もうゴルシェが大好きでした」と語る。両親の影響を受け、言葉を覚え始める年齢の頃から、彼女の歌と踊りの人生は始まっていた。「数年後には、『新龍一のゴルシェ名人』と呼ばれていたギャジュ(呷珠)さんという年長者に師事して、ゴルシェを歌い踊るようになりました」
それ以降、新龍各地で行われる祭りや行事のゴルシェ隊には、いつもアデさんの姿があった。学びと実践を重ねる中で、彼女は次第にゴルシェの技を身に付けていった。「あの頃、ギャジュ先生が教えてくれました。袖を振るときには『巧みな力』を使って、足を踏み出すときは軽やかに、そして体は柔らかく保たないといけないって」
長年にわたり、アデさんは初心を貫き、ゴルシェを踊り、資料を集めて整理し、新龍ゴルシェの魅力を広く紹介することに情熱を注いできた。「ゴルシェには独自の魅力があるけれど、そうした抽象的な舞踊表現は、『展示室』のような場所にそのまま置くことはできません。代々受け継いでいくことでしか守れないのです。真の保護とは、つまり『継承』に尽きます」と彼女は言う。「新龍ゴルシェを学びたいと思う人がいれば、私は誰にでも教えます。もっと多くの人にこの文化を理解してほしいし、共に力を合わせて、新龍ゴルシェ文化を継承し、さらに発展させていけたらと思っています」
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