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現在位置: 2010年 上海万博上海万博、縦横無尽

農村も都市も激変中の天津

 

陳言=文

新しい都市型の住宅が並び、無料バスが走る華明鎮(東方IC)

歴史上、名声を天下にとどろかせた天津は、「改革・開放」の中ではあまりにも目立たない存在だった。

週末に北京の南駅から電車に乗れば、29分で天津に着く。東京から横浜までの乗車時間とそれほど変わらないが、距離は137キロもある。高速鉄道がすでに開通しているのだ。そして駅に降り立つとすぐに、中国では漫才でおなじみの天津方言で客を引くタクシー運転手に出会う。近い所に行くと言えば乗車拒否され、少々遠い所に行こうとすれば、とんでもない料金を吹っかけられる。北京、天津、上海、重慶という、中央政府が直轄する4つの都市の中で、天津の駅だけが無秩序で、初めて訪れた人に不愉快な思いをさせる。

天津には営業運行されている地下鉄は一本しかない。他の直轄市を上回る混雑ぶりで利用客は多いが、地下鉄整備への投資は長い間行われてこなかった。最近になって延伸の計画が立てられたが、実際に運行されるまでにはまだ時間がかかるようだ。こうした未発達な交通インフラを見るだけでも、天津は直轄市の名にふさわしいかどうか疑問を感じる。

しかし、タクシーの無秩序ぶりなら、20年前の深圳でも見られた。今、天津は都市インフラ建設の出遅れを逆手にとって、スマートシティ(生活インフラ全体を統合した効率的な都市)へ変貌していこうとしている。「天津エコシティ構想」がそれだ。さらに、夏のダボス会議(世界経済フォーラムのニュー・チャンピオン年次総会)も天津で開催されるなど、新しい動きが見える。

天津はこれから変化していくだろう。その変化を継続させると、ひょっとしたら、かつての深圳や上海と同じく、10年、20年後に激変をもたらすかもしれない。上海万博で展示された天津の農村での取り組み、また天津の濱海新区の現状からその可能性を垣間見ることができる。

都市化する農村・華明鎮

上海万博ベストシティ・プラクティス区の天津ケース館は、8月に100万人目の来場者を迎えた。

農村から都市へ変化には、通常数十年から百年以上がかかるとされ、ゆっくりとその変化が完成するものだ。しかし、急速な経済成長下にある現在の中国では、自然な曲折や試行錯誤を重ねて変化していくより、むしろ地方政府などが積極的に都市化を推し進めているように見える。そうした発展プロセスの一つのサンプルが天津の華明鎮だ。そこでは「同じ土地で、違う暮らしを」というスローガンのもと、都市化が推し進められている。

華明鎮はまだ農村の性格が強い場所だ。住民の多くは農地を持っており、農業が主要な産業だ。しかし、都会のような住宅が建設され、公共施設も整備されているだけでなく、農村では十分に享受されていないと言われる福祉もここでは進んでいる。

農民は、村の土地の一部を宅地に転用することができる。そこに庭付きの平屋を建てて住むため、多くの村でまず目に入るのは、農民それぞれが建てた住宅だった。中国には比較的人口の多い村も少なくなく、人口の増加によって農地は不足している。しかし、宅地を減らせばこの問題は解決していく。平屋ではなく6階建て程度の住宅を政府が供給できれば、状況はかなり変わる。住宅だけでなく、都市並みの福祉、文化施設があれば、より魅力的な居住環境が整う。

15の村があり、鎮の人口も5万人に上る華明鎮は、そこに着目した。村の人が次々に都市型の住居に転入したため、宅地を耕地に戻すことができ、耕地面積減少を食い止めたのである。さらに、都市化よって小売、医療、教育などのサービスも登場してきた。名前はまだ華明鎮だが、行ってみると、数万人が暮らす華明市といった感じを持つ。

ただし、ここの住民はまだそれぞれの農地を持っている。自らそれを耕していない人も多いが、土地持ちの都市住民という特徴はまだ保たれている。

未来を託す濱海新区

天津は自動車、海運などで有名であるが、深圳、上海ほど全中国に影響を与えるような産業があるわけではない。

上海を大きく変化させた1990年代、天津も上海と同じように濱海新区を作り発展をめざした。面積2270平方キロの濱海新区は、巨大なコンテナターミナルを持つ塘沽区のほか、ハイテク産業開発区、経済技術開発区などが広がる巨大なものだ。特区になったばかりの深圳よりずっと広く、アセンブリー(組み立て)からスタートした深圳産業とも違う。深圳はもともと2万人の漁村だったが、ここは当初から数十万の人口を有していたのだ。

陳言

コラムニスト、『中国新聞週刊』主筆。1960年に生まれ、1982年に南京大学卒。中日経済関係についての記事、著書が多数。

上海の発展は、地元の復旦大学、上海交通大学などから提供される優秀な人材に支えられているが、天津にもそれに匹敵する南開大学、天津大学などがある。この点、深圳と比べると豊富で安定した人材の確保が期待できる。

ただ、漫才師を多く輩出するなど口達者で知られる天津人も、濱海新区については長い間口が重かった。隣の北京人でさえ、この濱海新区には電子、機械製造、製薬、化学工業、食品加工の企業が多数進出していることをほとんど知らない。そもそも濱海新区そのものの存在さえあまり知られていないのだ。天津の濱海新区まで出向いて、初めてそのことを知ったというのは筆者だけではあるまい。

電子、機械製造などの産業だけでは新味がなく注目されないと考えたのか、天津から直接海外の株取引をしようという金融面での試みもあった。しかし、途中で話を聞かなくなった。もともと金融業が発達していなかった天津では、ある日突然新しい仕事をしようとしても無理があるのだろう。地元が、新エネルギー、バイオ、IT関連の新産業を発展させ、交通の便を生かして北京の大学や研究開発機構と協力し、さらに外国の知恵も借りて新しい濱海新区を作っていく意気込みで取り組めば、結果はまったく違ってくるかもしれない。

中国経済を動かす中心的な場所は、1980年代には深圳だったが、90年代には北上して上海に移り、21世紀にはさらに北上して北京や天津になるだろう。その中で濱海新区が大きな役割を果たすことが期待される。

 

人民中国インターネット版 2010年10月

 

 

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